ある朝起きたら、輝いていて当たり前だった太陽がなかった。
本当に、唐突になかった。
ちらっと太陽の具合が悪いらしいよ、という話はきいていたけれど、
まさか突然消えてしまうなんて夢にも思わなかった。
だから、それは闘病の末の、がんばり抜いた、生き抜いた到達点ではあるけれど、
突然知ったわたしには、まるで太陽がなくなったようだった。
もう:荼毘にも付され、お別れの会もないという。
先生らしい。うん、らしいですよ、先生。
「ばか、あとはおまえ、自分の希望は自分で見つけろ!俺がヒントたくさんやっただろ」
って、どこかからしかられる声が聞こえるような気がします。
「だけどなあ、お前は本当にばかだから、わかんねえかもな(笑)」
そんな意地悪な声も…。
でも全部愛だった。愛ばかりの人だった。
誰もがそういう。
先生と接した人は。
愛を与えることばかりで、自分が愛されることをうっかり忘れていたりした。
思い出して、さみしがってたりした。
「いつも心に太陽を持って、みなさんは生きていくのです!」
きっと、太陽は昇るでしょう。
何ヶ月、何年先になるかわからないけれど。
先生、本当に本当に、ありがとうございました!
ありがとうございました!
2010/07/13
2010/06/22
最近の#twnovel
【父の日】
今日は父の日。私のお父さんの楽しみは、テレビで巨人戦を見ながらお酒を飲むこと。ささやかなサラリーマンの楽しみ。そして巨人が負けると母を渾身の力で殴ること。お父さん、今夜のお酒にプレゼント入れるから永遠に巨人の夢見てね。これ、母の日のプレゼントの方がよかったかな。
【空襲】
夜中、ぐっすり寝入っていた僕は「オサム!起きろ!空襲だ!」という声に飛び起きた。父が家中を走り回って家族を起こしている。昨日まで寝たきりだった父が!「父さん!オサムだよ、わかる?」。父は目の前の中年男とオサムが結びつかない。遠くにパトカーのサイレンが聞こえる。
【とりかかれない】
妻に支えられ、ようやく医者にたどり着いた。もう何ヶ月も家を出ていない。問診などのあと、医師は「とりかかれない症候群ですね」と言った。何かを「する」気持ちはあるが「とりかかれない」病だ。それはつまり「できない」。「何かできることは!」と問うと医者は「生きてます」。
【お題・襲撃】
「あたくしの肌?あらいやだ、何もしてませんのよ。50歳に見えない?またそんなあ。本当ですのよ、顔を洗う。それだけですのよ。ええ普通の石けん」。そのとき、開け放した窓から蜂の大群が彼女を襲撃した。塗りたくったロイヤルゼリーの仇討ちであった。
【お題・スイーツ/昼寝/襲撃/神】
「あんみつはあんみつだ。なんだスイーツ特集って。帰れ帰れ!ったく、ああいうのを見て襲撃しやがるんだ、ギャルってのがよ。ああー頭痛てえ。ちょっと昼寝するわ」。それっきり爺ちゃんは目覚めなかった。今頃神様に「俺ぁ仏教だ!」って喧嘩売ってるな。
【同時多発テロ】
「何!同時多発テロ!」。警視庁に緊張が走った。「どこからの情報だ!」「気象庁です!」「気象庁?」。気象庁では、各地からの異常現象にてんてこまいだった。「山梨で集中豪鰯!」「岡山で集中豪鰺!」。しかし一番多いのは、豪雨のように降り注ぐカエルであった。同時多発ケロ。
【ネクタイ】
父の日、娘がネクタイをパパにプレゼントした。安物ばかり締めているパパが見ても、ものがいい。「だめだぞ、無理しちゃ」「大丈夫。絶対似合うから毎日してね」。パパは嬉しくて毎日そのネクタイを締めて出社した。夕方になるとママと娘はパソコンの前でGPSをチェックしていた。
【籠の鳥】
「♪籠の鳥とんだ、屋根まで飛んだ、屋根まで飛んで、重くて落ちた」「だから不倫はよしなさいって言ったじゃない」。
【壁打ち】
僕には友だちがいない。だから毎日壁相手にボールを投げ、ボールを打つ。壁に跳ね返ったボールを受け、また投げ、打つ。壁を夕日が染める頃、僕はとぼとぼと家路をたどる。投げても投げても、そのまま帰ってくるだけの僕のかわいそうなボール。僕の前に立ちはだかるのは、言葉の壁。
【素直な人】
俺だ、小沢だ。そんな情けない声を出すな。電話越しにとって食えるか。…黙るな。そこはつっこむとこだろう。面と向かったって食えないでしょう、とか、食えないのはあなたですよ、とか。…メモするな。今後海外要人と会うときに使える?…とりあえず首洗っとけ。…本当に洗うなよ!
【でんじろう】
「ペット いわいでんじろう。ぼくはペットのでんじろうがだいすきだからぼくとおなじなまえをつけました。パパはぼくがうまれたとき、うれしくてうれしくてすきすぎてぼくにおなじなまえをつけました。パパがママとけっこんしたのは、もちろんママのなまえがでんじろうだからです」
【理論】
つまりね、簡単に言うと、石橋というのは石と石とが、ぎゅっ、と押し合う、その圧によって弓なりでなりたっているわけ。難しいことは言っても無駄だろうから省くけど計算上そういうことなわけ。その石橋がね、頑丈な石橋が、落ちた、と。そういう歌なんだよ、ロンドン橋というのは。
【非実在】
児童ポルノの氾濫が看過できぬ状態となり、ついに政府が動いた。「少年少女の性的イメージはいかん」「まったくさようで」「法律を作れ」「はい」。しかしいざその段になって官僚達は困った。少年少女とは何歳まで?平均寿命1億5千年のトチジ星人は悩む。
【悪人】
俺は悪人である。どうだ。どうだと言われても困るだろう。お前に直接悪さは出来ない。俺は所詮2次元の悪人だからな。だから読んでるお前が気持ち悪くなることをいっぱい言ってやる。覚悟して読め!さあ…ウンコ!…なんだその半笑いは。オバケ!…おい、嫁を呼ぶな。二人で笑うな!
【漫画家の弟子】
僕は中学高校と漫研の部長だった。後輩を連れ迷いもなく和田ラヂヲ先生の門を叩いた。門から家まで5キロあるので、一時間ほど待った。先生は「僕は弟子は取らんのだが」とお定まりの台詞。「先生、筆名を考えて参りました」「何」「和田ラヂヲと暇なスターズ」「役に立たねえよ」。
【なか卯】
3日前から何も食ってねえ。ようやく田舎町に入った。この時間にやってる店は少ない。飢えた狼のように眼をぎらぎらさせ、ついになか卯の灯りを見つけた。涙が出た。俺はよろよろとなか卯に入った。「…小うどん」「はい」「と…お前だあーっ!」
【鉄道研究会】
大学に入学して迷わず鉄道研究会に入った。「君、乗り鉄?」。先輩が微笑んで聞いてくれたので勇んで答えた。「僕は、終着駅なのか始発駅なのかを決める研究をしたいんです!」。先輩達の顔が凍り付いた。やはりこれが、鉄の中で触れてはいけない永遠の謎か。僕はまた一人旅に出た。
【忘れてないかもう一人】
どんぶらこっと。おっと、また言っちまった。「どっこいしょ」って言うんだよな。ついつい昔の癖が出ちまうよ。えーっと、何するんだっけ。あっ、今日も一日署長だ。熊谷だっけか?交通事故防止、犯罪防止、正義の味方のお仕事だ。頑張ろう。え?桃太郎?誰それ。俺一寸法師だけど。
【記憶】
記憶は嘘をつく。特に子供の記憶ほど当てにならぬものはない。それは子供が主観的な生き物だからだ。小さな世界で物語を作ってしまう。大人だって似たようなものだ。記憶は嘘をつく。その嘘を点検するのが老後の楽しみだった。が、僕の記憶は嘘どころか嘘どころか、何の話でしたか?
【今はテーブルマーク】
母ちゃんが出て行った。親父はパチンコと競馬で帰ってこない。好きなものを食べていい。加ト吉の冷凍うどんをしこたま買い込み、毎日考えたレシピを集めた『ウドンデス中学生』が大ヒットした。父ちゃん母ちゃん、帰ってきて。一緒にうどん食おう。
【約束】
若者が駅のホームにじっと立っている。老いた駅員が彼に近よると、若者はすっ、と消えた。「ああ、君か」。十数年前、ここで恋人同士が待ち合わせをした。が彼女は来なかった。彼は東京で結婚して子供もいると風の便り。東京の彼は自分が毎年ふるさとのホームに来ることを知らない。
今日は父の日。私のお父さんの楽しみは、テレビで巨人戦を見ながらお酒を飲むこと。ささやかなサラリーマンの楽しみ。そして巨人が負けると母を渾身の力で殴ること。お父さん、今夜のお酒にプレゼント入れるから永遠に巨人の夢見てね。これ、母の日のプレゼントの方がよかったかな。
【空襲】
夜中、ぐっすり寝入っていた僕は「オサム!起きろ!空襲だ!」という声に飛び起きた。父が家中を走り回って家族を起こしている。昨日まで寝たきりだった父が!「父さん!オサムだよ、わかる?」。父は目の前の中年男とオサムが結びつかない。遠くにパトカーのサイレンが聞こえる。
【とりかかれない】
妻に支えられ、ようやく医者にたどり着いた。もう何ヶ月も家を出ていない。問診などのあと、医師は「とりかかれない症候群ですね」と言った。何かを「する」気持ちはあるが「とりかかれない」病だ。それはつまり「できない」。「何かできることは!」と問うと医者は「生きてます」。
【お題・襲撃】
「あたくしの肌?あらいやだ、何もしてませんのよ。50歳に見えない?またそんなあ。本当ですのよ、顔を洗う。それだけですのよ。ええ普通の石けん」。そのとき、開け放した窓から蜂の大群が彼女を襲撃した。塗りたくったロイヤルゼリーの仇討ちであった。
【お題・スイーツ/昼寝/襲撃/神】
「あんみつはあんみつだ。なんだスイーツ特集って。帰れ帰れ!ったく、ああいうのを見て襲撃しやがるんだ、ギャルってのがよ。ああー頭痛てえ。ちょっと昼寝するわ」。それっきり爺ちゃんは目覚めなかった。今頃神様に「俺ぁ仏教だ!」って喧嘩売ってるな。
【同時多発テロ】
「何!同時多発テロ!」。警視庁に緊張が走った。「どこからの情報だ!」「気象庁です!」「気象庁?」。気象庁では、各地からの異常現象にてんてこまいだった。「山梨で集中豪鰯!」「岡山で集中豪鰺!」。しかし一番多いのは、豪雨のように降り注ぐカエルであった。同時多発ケロ。
【ネクタイ】
父の日、娘がネクタイをパパにプレゼントした。安物ばかり締めているパパが見ても、ものがいい。「だめだぞ、無理しちゃ」「大丈夫。絶対似合うから毎日してね」。パパは嬉しくて毎日そのネクタイを締めて出社した。夕方になるとママと娘はパソコンの前でGPSをチェックしていた。
【籠の鳥】
「♪籠の鳥とんだ、屋根まで飛んだ、屋根まで飛んで、重くて落ちた」「だから不倫はよしなさいって言ったじゃない」。
【壁打ち】
僕には友だちがいない。だから毎日壁相手にボールを投げ、ボールを打つ。壁に跳ね返ったボールを受け、また投げ、打つ。壁を夕日が染める頃、僕はとぼとぼと家路をたどる。投げても投げても、そのまま帰ってくるだけの僕のかわいそうなボール。僕の前に立ちはだかるのは、言葉の壁。
【素直な人】
俺だ、小沢だ。そんな情けない声を出すな。電話越しにとって食えるか。…黙るな。そこはつっこむとこだろう。面と向かったって食えないでしょう、とか、食えないのはあなたですよ、とか。…メモするな。今後海外要人と会うときに使える?…とりあえず首洗っとけ。…本当に洗うなよ!
【でんじろう】
「ペット いわいでんじろう。ぼくはペットのでんじろうがだいすきだからぼくとおなじなまえをつけました。パパはぼくがうまれたとき、うれしくてうれしくてすきすぎてぼくにおなじなまえをつけました。パパがママとけっこんしたのは、もちろんママのなまえがでんじろうだからです」
【理論】
つまりね、簡単に言うと、石橋というのは石と石とが、ぎゅっ、と押し合う、その圧によって弓なりでなりたっているわけ。難しいことは言っても無駄だろうから省くけど計算上そういうことなわけ。その石橋がね、頑丈な石橋が、落ちた、と。そういう歌なんだよ、ロンドン橋というのは。
【非実在】
児童ポルノの氾濫が看過できぬ状態となり、ついに政府が動いた。「少年少女の性的イメージはいかん」「まったくさようで」「法律を作れ」「はい」。しかしいざその段になって官僚達は困った。少年少女とは何歳まで?平均寿命1億5千年のトチジ星人は悩む。
【悪人】
俺は悪人である。どうだ。どうだと言われても困るだろう。お前に直接悪さは出来ない。俺は所詮2次元の悪人だからな。だから読んでるお前が気持ち悪くなることをいっぱい言ってやる。覚悟して読め!さあ…ウンコ!…なんだその半笑いは。オバケ!…おい、嫁を呼ぶな。二人で笑うな!
【漫画家の弟子】
僕は中学高校と漫研の部長だった。後輩を連れ迷いもなく和田ラヂヲ先生の門を叩いた。門から家まで5キロあるので、一時間ほど待った。先生は「僕は弟子は取らんのだが」とお定まりの台詞。「先生、筆名を考えて参りました」「何」「和田ラヂヲと暇なスターズ」「役に立たねえよ」。
【なか卯】
3日前から何も食ってねえ。ようやく田舎町に入った。この時間にやってる店は少ない。飢えた狼のように眼をぎらぎらさせ、ついになか卯の灯りを見つけた。涙が出た。俺はよろよろとなか卯に入った。「…小うどん」「はい」「と…お前だあーっ!」
【鉄道研究会】
大学に入学して迷わず鉄道研究会に入った。「君、乗り鉄?」。先輩が微笑んで聞いてくれたので勇んで答えた。「僕は、終着駅なのか始発駅なのかを決める研究をしたいんです!」。先輩達の顔が凍り付いた。やはりこれが、鉄の中で触れてはいけない永遠の謎か。僕はまた一人旅に出た。
【忘れてないかもう一人】
どんぶらこっと。おっと、また言っちまった。「どっこいしょ」って言うんだよな。ついつい昔の癖が出ちまうよ。えーっと、何するんだっけ。あっ、今日も一日署長だ。熊谷だっけか?交通事故防止、犯罪防止、正義の味方のお仕事だ。頑張ろう。え?桃太郎?誰それ。俺一寸法師だけど。
【記憶】
記憶は嘘をつく。特に子供の記憶ほど当てにならぬものはない。それは子供が主観的な生き物だからだ。小さな世界で物語を作ってしまう。大人だって似たようなものだ。記憶は嘘をつく。その嘘を点検するのが老後の楽しみだった。が、僕の記憶は嘘どころか嘘どころか、何の話でしたか?
【今はテーブルマーク】
母ちゃんが出て行った。親父はパチンコと競馬で帰ってこない。好きなものを食べていい。加ト吉の冷凍うどんをしこたま買い込み、毎日考えたレシピを集めた『ウドンデス中学生』が大ヒットした。父ちゃん母ちゃん、帰ってきて。一緒にうどん食おう。
【約束】
若者が駅のホームにじっと立っている。老いた駅員が彼に近よると、若者はすっ、と消えた。「ああ、君か」。十数年前、ここで恋人同士が待ち合わせをした。が彼女は来なかった。彼は東京で結婚して子供もいると風の便り。東京の彼は自分が毎年ふるさとのホームに来ることを知らない。
#twnovel 5月頃
【見合い】
こーん、とししおどしが石を鳴らした。和室の若い二人は、どう会話していいかわからない。「あの」「はい」「いや…」。こーん。「あの」「はい」「僕は、恥ずかしいのですが女性とつきあったことがないんです」「わたしも真面目すぎるって言われてます。今まで、ノンパコなんです」
【二郎】
風呂屋の二郎が煙突のてっぺんに立っている。「おうい、二郎、何しとる」。二郎は仁王立ちのまま風に吹かれている。町内の人々が集まってきた。「おうい、二郎、降りてこい」。二郎は煙突の上から叫んだ。「父ちゃん!母ちゃん!おいら、風呂屋、継ぐよ!」。二郎は面倒な男だった。
【作家】
俺は職人作家。オーダーがあれば何でも書く。本格ミステリから純文学、携帯小説、麒麟の漫才、自伝のゴースト、いしかわじゅんの漫画のゴースト、そうだ、絵だって描く。ネタ枯れやスランプなんて言葉は無縁だ。ただ、ここ数年は新しい仕事は無理だ。広辞苑のゴーストは骨が折れる。
【高い男と低い男】
オレオレ詐欺のニュースが終わった。「お疲れさん。次はTBS?」「はい、でCXです」「君達しかいないからね」。二人の男は頭を下げ、急ぎ足で次へと向かう。二人の男は“声の低い男”と“声の高い男”とだけ呼ばれている。低い男は犯人の声、高い男は被害者の声を担当している。
【7分】
老いた父が、7分ずれた。ぼけたのではない。ずれた。俺が7分前に入っていたトイレに向かって「早く出なさい」という。夕食が終わった7分後に「旨いね」と洗い物をする母の背中に言う。テレビの漫才が終わった7分後に笑い出す。心停止7分後、父は「ありがとう」と言って死んだ。
【困った】
「今晩は小鳥よしおです。あ、すみません、これ裸ですけど、これ衣装なんで…。あの、今夜泊めていただけませんか?えっ、そうですか、ありがとうございますm(_ _ )m。では今からお邪魔します」。結婚するときは面白い人だと思ったけど、毎日こんな帰るメール、ウザいわー。
【ハーレクイン】
恥ずかしいけど、ハーレクインにはまってる。恥ずかしいっていうのは貶めているのではなく、キャラじゃないってこと。だって人殺しだもん、俺。報酬でホテルを転々としながら夜ごとツイッターでつぶやく。「こんな恋してみたい」。「私も」「私も」。オフ会に出られないのが悲しい。
2010/04/13
夫、深川岳志の#twnovel 10選
手前味噌ですが、夫のツイッターノベル(#twnovel)、私の好きな厳選10編です。
ツイッター小説大賞にも応募しましたが,残念ながら一次審査で全部落ちてしまいました。
とても悲しいのでここに並べます。
ご笑覧頂けましたら幸いです。
ツイッター小説大賞にも応募しましたが,残念ながら一次審査で全部落ちてしまいました。
とても悲しいのでここに並べます。
ご笑覧頂けましたら幸いです。
作・深川岳志 @noraokapi
「喪中」
「両親、妻子、みんな死んでるじゃないか。保険金狙いで殺したんだろ」「ちげーよ」「しかも結婚十回ってなんだよ」「警部」と名探偵が言った。「なぜ毎年一人ずつ殺していると思います? 喪中ですよ」「うおお。書きたくなかったんだよお」年賀状嫌いの犯人は号泣して罪を認めた。 #twnovel
「三兄弟」
うたた寝して、はっと気づいたら机の隅で三兄弟が踊っていた。「ねむい」「だるい」「はらへった」三兄弟を鷲づかみにして、空箱に放り込む。すこし油断すると、すぐにあらわれるのだ。幻覚を持って精神科を訪ねた。箱を開けると、空っぽ。不審げな医者の頭の上でうつ三兄弟が踊る。 #twnovel
「膝の猫」
猫が亡くなったので動物寺に埋葬してきた。悲しさのあまりソファにあぐらをかいて茫然としていると、いつの間にか膝の間に猫がいた。「ん、おまえ軽くなったな」って、さっき埋葬したところじゃねえかっ。うとうと眠っていた猫は、だからなんだというふうに薄目を開けておれを見た。 #twnovel
「権ピューター」
脳にコンピュータチップを埋め込んだ権蔵じいさんのもの忘れが激しくなった。「完璧な記憶力だったのにどうして?」「メモリーが足りなくなって重要度の低い記憶を消していったんじゃ」「それでいいんじゃないの?」「大切な記憶は残すべきじゃった」権ピュータはしくしくと泣いた。 #twnovel
「分け入っても」
「分け入っても分け入ってもドアの鍵」「さすが警部殿、山頭火のもじりでありますか」「うるさい。一体何枚あるんだ」「135枚です」「なんでこんな家を造りやがった」「主人が死んでしまったので永遠の謎です」「念の入った密室殺人だな」「いえ、部屋の窓は開けっ放しでした」 #twnovel
「便利屋」
便利屋が挨拶に来た。いつの間にか家に上がり、夕飯を食べている。「こんなにのんびりしていていいんですか」と私は晩酌しながら尋ねた。「私どもの仕事は不便を見つけるところから始めるものですから」一ヶ月滞在した後「じつに快適なお住まいです」といって便利屋は去っていった。 #twnovel
「貧乏くじ」
「貧乏籤に当選いたしました」という電話がかかってきた。そんな縁起の悪いものを買った覚えはないというと、宝くじだという。宝くじにはプラスの当たりとマイナスの当たりがあるというのだが、にわかには信じられない。ほんの出来心で、私は2億円の借金持ちになってしまった。 #twnovel
「歩」
太平洋から九匹の怪獣「歩」が上陸し、日本海側からも同じく九匹の「歩」が上陸して日本中が大騒ぎになった。続いて「槍」「桂馬」「銀」「金」「飛車」「王」が上陸し、自衛隊の邪魔をものともせずに勝負を開始した。夜になると次の一手を封印して、怪獣たちは深い眠りに落ちた。 #twnovel
「猿飛佐助なう」
「十四代目猿飛佐助、なう」「なう、てなんだ」「すみません。現代風にアレンジしてみました」「失敬な。私を誰だと思っておる。言い直せ」「十四代目猿飛佐助ただいま参上」「よし。用件をいえ」「お命頂戴」「あ、そういうことは秘書官に」首相の首がころりんと転がった。 #twnovel
「があちゃん」
帰宅すると、エプロンをつけたあひるが出迎えた。「があー」「があちゃんか。おまえ、かあちゃんは知らんか?」「があー」があちゃんはけっこう器用に家事をこなした。なぜわたしの世話を焼いてくれるのかはよくわからない。「おまえ、ひょっとしてかあちゃんなのか?」「があー」 #twnovel
2010/02/19
藤田まこと氏追悼 『役者魂!』を知っていますか?
藤田まことさん急逝の報に接し、ご冥福をお祈りいたします。
世代的に、スチャラカ社員、てなもんやシリーズで育ち、長じて仕置き人もけっこう見ていたし、はぐれ刑事は母親につきあって見ていたし。
晩年、いいお仕事もいろいろなさっていた中で、藤田氏の寿命を縮めたのではないかと思われるドラマが存在したことを、皆様ご存じでしょうか?
『役者魂!』
http://ja.wikipedia.org/wiki/役者魂!
わたしは事情あって、全回録画し、リアルタイムで見ました。
そして、藤田さんがあまりに不憫で、ああ、この方に新しいドラマは来ないだろう…
と暗い気持ちになりました。
その後、映画でいいお仕事をなさって、よかったと思います。
どんなドラマだったのか?
これは単なる「駄作」ではありません。ドラマ史に(黒歴史として)残すべき作品です。
大変長くなりますが、2006年11月にmixiに書いた日記を一部加筆訂正して転載します。
【役者魂!】
えっ。一回目で後足で砂かけてリタイヤしたはずでは!?
そうなんです。なんですがっ。事情(わけ)あって昨日より復活。昼間の再放送、というか「これを見れば今日からでもついていけますよーな今までのまとめ」も見てしまいました。
ある意味。これ、見ておいた方がいいかもしれません。エポックメーキング。二度と巡り会えぬ怪作になるかもしれません。それ以前に間違いなく駄作なのですが、その駄作加減がハンパじゃない。しかも役者はいいところ揃えて、全員熱演好演、だけど超駄作。脚本大崩壊。
大変なことになっております、このドラマ。
もはや脚本の君塚良一氏、何らかの変調を来しておられるか、あるいは『踊る』の功績で誰も文句をつけられない裸の王様になってしまったのか。(※この後君塚氏は舞台を書いたので、あー、舞台に憧れておられたのね、と納得。ちなみにわたくし、君塚さんの昔の作品は大好きです)
主要登場人物は、
・舞台一筋、一本気な老シェイクスピア俳優・本能寺(妻を亡くし子供は独立)
(演・藤田まこと)
・天涯孤独、演劇は全く興味も知識もない芸能マネージャー・瞳美
(演・松たか子)
この二人が、望まないペアを組まされるところから始まったのであります。
そこに起きる事件。
・本能寺の子だと自称する小学生の姉弟が「おとうさまと暮らせと言われた」と訪ねてくる
・本能寺は『リチャード三世』の演技に納得いかず「幕を開けたくない」と言う
えーと……この程度?
あとはランダムに。
・本能寺は隠し子発覚で動揺したため、芝居に没頭できず、台詞は投げやりに。なんとその演技が「肩の力の抜けた新境地」「リアルな演技」と大絶賛される。
あのですね。本能寺は衣装が気に入らないと手縫いで直すほど、愚直なまでに芝居一筋の男。たとえ親が死んでも舞台は精一杯つとめるタイプじゃないんでしょうか? たかが隠し子で、茫然自失のまま舞台に立つなんて……しかももはや妻もなく、子供も独立しちゃってるんですよ。隠し事かどうでもよくないすか? しかもしかもその棒読み演技が怪我の功名で大ヒット、って、『プロデューサーズ』とか数多ある過去の黄金パターン。しかもしかもしかもっ! 本能寺の(藤田さんではありません)演技が、全く絶賛に値しない(爆)!
・重厚(と思ってほしいらしい)な演技について悩む本能寺のリハーサルを見たゲイのスタイリストが一言。「普通にやればいいんじゃないの?」。暗闇に一筋の光。「リアリズムと言うことかね?」。さらに、時代に合わせて台詞や衣装を変えるべきだ、という声も上がり、本能寺のリチャード三世は、ベトコン風迷彩服に銃を持ってリハーサルに登場、ラッパーらしき衣装でラップを口ずさみながらリハーサルに登場、時代劇の侍でリハーサルに登場、最後に一言「なんでワシがこんな格好をしなきゃならんのだ!」
こっちが知りたいわっ(爆)!
・舞台が赤字だと聞いて事務所の社長は「当日券を売るとかもっと客を入れる努力をしろ」と瞳美に命じる。既に初日が空いてしまった芝居、手っ取り早く客をつかむにはテレビしかない、と、瞳美は生の情報番組に売り込み。情報番組とバラエティの違いがわからないアシスタントの経理くんが間違ってバラエティ番組を取ってきてしまい、コントをやれと言われた本能寺は怒って帰ってしまう。
怒って帰ってしまった穴はどうするんだろう。本能寺が「くだらない」と怒るコントは、くだらないとかなんとか言う以前のレベル。そりゃテレビ屋はバカもいっぱいいるだろうけど、このステレオタイプは勘弁してくれ。それこそ「コントに出てくるテレビマン」だよ。てゆうかぁ、本能寺、あんたはコントにも出せないほどレベルの低いステレオタイプな「役者」だよぉー!(藤田さんのことではありません。本能寺というキャラクターが、です。本能寺の変じゃなく、本能寺が、変!)。
・夕方のバラエティだか情報番組だか、もはやなんだかわからない番組の「大食いにチャレンジ」コーナーに出演させられる本能寺。怒り心頭。本来ラーメンの大食い対決の所、瞳美が「待ってください!」と登場。その手には本能寺の大好物である大福が。「大福対決にしてください!」。大福なら本能寺が食べてくれると読んだ瞳美。しかし本能寺は戦いが始まっても渋面のまま大福に手をつけない。デブのチャンピオンが着々と食べ進む。……瞳美は叫んだ。
「先生! 演劇が、バラエティに負けてもいいんですかっ!」
本能寺、猛然と、嬉しそうに、おいしそうに、どんどん食べてチャンピオンを破る。この模様は夕方の帯番組で放送され、センセーションを巻き起こし、劇場には人が詰めかけて大入り満員、万々歳♪
とくにコメントする気も起きませんがあえて書くなら「夕方の視聴率最大5パーセント程度の番組で大食いして、速攻その夜のリチャード三世に客が入るなら、演劇関係者は誰も苦労はせんっ!」。そして、
「先生! 演劇が、バラエティに負けてもいいんですかっ!」
全身の毛が抜け落ちるかと思いました。
ああー、すごい。すごいぞ『役者魂!』。見続ける体力、わたしには多分ないけど、見られるときは見ておこう。それもできるだけ早い回を見た方がいい。ヘタすると、少しずつ修正して普通の駄作になってしまうかもしれない。あと、子役が無駄にうまく(ごめんね)、しかも大人と違って脚本を素直にそのまま演じているものだから、脚本のアラが見事に浮かび上がり、目も当てられない。これも見物です。また、演劇へのオマージュとかパスティーシュとか言ってほしいであろう、パロディにすらなっていない、それパクリだろ、が演劇好きには一興かも。
このドラマ、本気で役者魂持った役者だらけなんだよなあ……。非正規視聴復活。
※「無駄にうまい子役」、
川島海荷
の幼き日です。うまいに決まってますって!
世代的に、スチャラカ社員、てなもんやシリーズで育ち、長じて仕置き人もけっこう見ていたし、はぐれ刑事は母親につきあって見ていたし。
晩年、いいお仕事もいろいろなさっていた中で、藤田氏の寿命を縮めたのではないかと思われるドラマが存在したことを、皆様ご存じでしょうか?
『役者魂!』
http://ja.wikipedia.org/wiki/役者魂!
わたしは事情あって、全回録画し、リアルタイムで見ました。
そして、藤田さんがあまりに不憫で、ああ、この方に新しいドラマは来ないだろう…
と暗い気持ちになりました。
その後、映画でいいお仕事をなさって、よかったと思います。
どんなドラマだったのか?
これは単なる「駄作」ではありません。ドラマ史に(黒歴史として)残すべき作品です。
大変長くなりますが、2006年11月にmixiに書いた日記を一部加筆訂正して転載します。
【役者魂!】
えっ。一回目で後足で砂かけてリタイヤしたはずでは!?
そうなんです。なんですがっ。事情(わけ)あって昨日より復活。昼間の再放送、というか「これを見れば今日からでもついていけますよーな今までのまとめ」も見てしまいました。
ある意味。これ、見ておいた方がいいかもしれません。エポックメーキング。二度と巡り会えぬ怪作になるかもしれません。それ以前に間違いなく駄作なのですが、その駄作加減がハンパじゃない。しかも役者はいいところ揃えて、全員熱演好演、だけど超駄作。脚本大崩壊。
大変なことになっております、このドラマ。
もはや脚本の君塚良一氏、何らかの変調を来しておられるか、あるいは『踊る』の功績で誰も文句をつけられない裸の王様になってしまったのか。(※この後君塚氏は舞台を書いたので、あー、舞台に憧れておられたのね、と納得。ちなみにわたくし、君塚さんの昔の作品は大好きです)
主要登場人物は、
・舞台一筋、一本気な老シェイクスピア俳優・本能寺(妻を亡くし子供は独立)
(演・藤田まこと)
・天涯孤独、演劇は全く興味も知識もない芸能マネージャー・瞳美
(演・松たか子)
この二人が、望まないペアを組まされるところから始まったのであります。
そこに起きる事件。
・本能寺の子だと自称する小学生の姉弟が「おとうさまと暮らせと言われた」と訪ねてくる
・本能寺は『リチャード三世』の演技に納得いかず「幕を開けたくない」と言う
えーと……この程度?
あとはランダムに。
・本能寺は隠し子発覚で動揺したため、芝居に没頭できず、台詞は投げやりに。なんとその演技が「肩の力の抜けた新境地」「リアルな演技」と大絶賛される。
あのですね。本能寺は衣装が気に入らないと手縫いで直すほど、愚直なまでに芝居一筋の男。たとえ親が死んでも舞台は精一杯つとめるタイプじゃないんでしょうか? たかが隠し子で、茫然自失のまま舞台に立つなんて……しかももはや妻もなく、子供も独立しちゃってるんですよ。隠し事かどうでもよくないすか? しかもしかもその棒読み演技が怪我の功名で大ヒット、って、『プロデューサーズ』とか数多ある過去の黄金パターン。しかもしかもしかもっ! 本能寺の(藤田さんではありません)演技が、全く絶賛に値しない(爆)!
・重厚(と思ってほしいらしい)な演技について悩む本能寺のリハーサルを見たゲイのスタイリストが一言。「普通にやればいいんじゃないの?」。暗闇に一筋の光。「リアリズムと言うことかね?」。さらに、時代に合わせて台詞や衣装を変えるべきだ、という声も上がり、本能寺のリチャード三世は、ベトコン風迷彩服に銃を持ってリハーサルに登場、ラッパーらしき衣装でラップを口ずさみながらリハーサルに登場、時代劇の侍でリハーサルに登場、最後に一言「なんでワシがこんな格好をしなきゃならんのだ!」
こっちが知りたいわっ(爆)!
・舞台が赤字だと聞いて事務所の社長は「当日券を売るとかもっと客を入れる努力をしろ」と瞳美に命じる。既に初日が空いてしまった芝居、手っ取り早く客をつかむにはテレビしかない、と、瞳美は生の情報番組に売り込み。情報番組とバラエティの違いがわからないアシスタントの経理くんが間違ってバラエティ番組を取ってきてしまい、コントをやれと言われた本能寺は怒って帰ってしまう。
怒って帰ってしまった穴はどうするんだろう。本能寺が「くだらない」と怒るコントは、くだらないとかなんとか言う以前のレベル。そりゃテレビ屋はバカもいっぱいいるだろうけど、このステレオタイプは勘弁してくれ。それこそ「コントに出てくるテレビマン」だよ。てゆうかぁ、本能寺、あんたはコントにも出せないほどレベルの低いステレオタイプな「役者」だよぉー!(藤田さんのことではありません。本能寺というキャラクターが、です。本能寺の変じゃなく、本能寺が、変!)。
・夕方のバラエティだか情報番組だか、もはやなんだかわからない番組の「大食いにチャレンジ」コーナーに出演させられる本能寺。怒り心頭。本来ラーメンの大食い対決の所、瞳美が「待ってください!」と登場。その手には本能寺の大好物である大福が。「大福対決にしてください!」。大福なら本能寺が食べてくれると読んだ瞳美。しかし本能寺は戦いが始まっても渋面のまま大福に手をつけない。デブのチャンピオンが着々と食べ進む。……瞳美は叫んだ。
「先生! 演劇が、バラエティに負けてもいいんですかっ!」
本能寺、猛然と、嬉しそうに、おいしそうに、どんどん食べてチャンピオンを破る。この模様は夕方の帯番組で放送され、センセーションを巻き起こし、劇場には人が詰めかけて大入り満員、万々歳♪
とくにコメントする気も起きませんがあえて書くなら「夕方の視聴率最大5パーセント程度の番組で大食いして、速攻その夜のリチャード三世に客が入るなら、演劇関係者は誰も苦労はせんっ!」。そして、
「先生! 演劇が、バラエティに負けてもいいんですかっ!」
全身の毛が抜け落ちるかと思いました。
ああー、すごい。すごいぞ『役者魂!』。見続ける体力、わたしには多分ないけど、見られるときは見ておこう。それもできるだけ早い回を見た方がいい。ヘタすると、少しずつ修正して普通の駄作になってしまうかもしれない。あと、子役が無駄にうまく(ごめんね)、しかも大人と違って脚本を素直にそのまま演じているものだから、脚本のアラが見事に浮かび上がり、目も当てられない。これも見物です。また、演劇へのオマージュとかパスティーシュとか言ってほしいであろう、パロディにすらなっていない、それパクリだろ、が演劇好きには一興かも。
このドラマ、本気で役者魂持った役者だらけなんだよなあ……。非正規視聴復活。
※「無駄にうまい子役」、
川島海荷
の幼き日です。うまいに決まってますって!
2010/01/17
夫の悪夢
深夜、居間の床暖房の上で寝ていた夫が、突然、ひくっ、ひくひくっ、ひくっ、ひくひくっ、と呼吸困難のような音を出し、体もけいれんし始めた。
昨年なくなった夫の父が、まさに心臓で睡眠時無呼吸症などを煩っていた。びっくりして揺り起こすと、なんでもない。それで寝ると、しばらくたってまた、ひくっ、ひくひくっ、ひくっ、ひくひくっ、が始まる。これを三回繰り返し、いくら何でも、と四度目に手首を触って脈を診ようとしたら、
「あんたがそんなことばかりしよるから試合が進まへんねん」
と半笑いで言う。
まだ完全に目覚めていないうちに夢の内容を聞いた。
****************************************
お茶の入ったコップを投げる試合やねん。相手?相手いたなあ…誰やったかなあ…あ、宮迫! 宮迫と試合しとるのに、あんたがちょいちょい邪魔しよんねん。部屋の中でなあ、めっちゃ汚いからみんなでゴミとか拾ったりして、そうか、四人ぐらいおったなあ。誰やったかなあ。マンションの6階やねん。
あ、その前に道路や、道路で、宮迫と、あと誰か、ようわからんけど、とにかく追いかけっこみたいにしとって、なんやもう、おかしうておかしうて、ゲラゲラ笑って、ゲームしながらゲラゲラ笑って…
あ、そうか、そやからそのヒクヒクは、笑っとってん。
****************************************
心配さしなや、ややこしい夢見て!
****************************************
あとな、あんたが6階から飛び降りんねん(えーっ)。で、だーんと道路に仁王立ちする(なんでやねん)。そうすると、阪急電車が通ってんねんけど、乗客がみんな、ひゃーって飛ぶねん。迷惑なやっちゃ。
****************************************
夢でも悪役かい…(T_T)。
ちなみに、そのひくっ、ひくひくっ、のとき、ちょうどわたしは宮迫の記事をウェブで読んでいた。
…怖っ…
昨年なくなった夫の父が、まさに心臓で睡眠時無呼吸症などを煩っていた。びっくりして揺り起こすと、なんでもない。それで寝ると、しばらくたってまた、ひくっ、ひくひくっ、ひくっ、ひくひくっ、が始まる。これを三回繰り返し、いくら何でも、と四度目に手首を触って脈を診ようとしたら、
「あんたがそんなことばかりしよるから試合が進まへんねん」
と半笑いで言う。
まだ完全に目覚めていないうちに夢の内容を聞いた。
****************************************
お茶の入ったコップを投げる試合やねん。相手?相手いたなあ…誰やったかなあ…あ、宮迫! 宮迫と試合しとるのに、あんたがちょいちょい邪魔しよんねん。部屋の中でなあ、めっちゃ汚いからみんなでゴミとか拾ったりして、そうか、四人ぐらいおったなあ。誰やったかなあ。マンションの6階やねん。
あ、その前に道路や、道路で、宮迫と、あと誰か、ようわからんけど、とにかく追いかけっこみたいにしとって、なんやもう、おかしうておかしうて、ゲラゲラ笑って、ゲームしながらゲラゲラ笑って…
あ、そうか、そやからそのヒクヒクは、笑っとってん。
****************************************
心配さしなや、ややこしい夢見て!
****************************************
あとな、あんたが6階から飛び降りんねん(えーっ)。で、だーんと道路に仁王立ちする(なんでやねん)。そうすると、阪急電車が通ってんねんけど、乗客がみんな、ひゃーって飛ぶねん。迷惑なやっちゃ。
****************************************
夢でも悪役かい…(T_T)。
ちなみに、そのひくっ、ひくひくっ、のとき、ちょうどわたしは宮迫の記事をウェブで読んでいた。
…怖っ…
2010/01/16
Twitterとの連携
まだよくわからないので、テスト投稿です。
この投稿がTwitterに反映されれば成功なのですが、さて。
今日、明日、息子がセンター入試。
明日は送り出した後、息子と自分の母校に行って、恩師を偲ぶ会。
息子が試験の最中、彼の高校にいるのもまた、何かよいかな、と。
この投稿がTwitterに反映されれば成功なのですが、さて。
今日、明日、息子がセンター入試。
明日は送り出した後、息子と自分の母校に行って、恩師を偲ぶ会。
息子が試験の最中、彼の高校にいるのもまた、何かよいかな、と。
2010/01/04
2009/12/25
2009年M-1グランプリ
ブログだし、当然のことながら個人の勝手な感じ方である。
奈良の博物館ネタは笑い死ぬかと思うほど面白かった。
けれど、笑い飯よりフットボールアワーより、アンタッチャブルに爆笑した。
ツッコミはちょっとガラが悪いけれど、それが笑える。ボケの深みが段違い。
ツッコミは横山やすしを彷彿とさせ、ボケは見たことのないおかしさだった。
2004年、アンタッチャブル以外に面白かったのは、一本目の南海キャンディーズだけだった。
アンタッチャブルの爆発力はすさまじく、前年より格段に「品」がついていた。
笑い飯は自ら「優勝候補です」と言って自分にプレッシャーをかける。
そして、つまらなかった。以後、一度も面白いと思ったことはない。
2005年、一本目から、ブラックマヨネーズの優勝は目に見えていた。
しばらく、ボウリングの話になると思い出し笑いするほどおかしかった。
が、チュートリアルの5位は納得がいかなかった。「ボタテホタテ」にお腹が痛くなった。
なぜ? こんなに面白いのに? 決勝に残って当然でしょ?
2006年、チュートリアルのダントツだった。去年の雪辱。
去年との大きな違い、福田がうまくなった。
ごくごく日常の会話。どうでもいい会話。どうでもいい話題。
冷蔵庫を買った、自転車のベルをなくした。
どうでもいい話。相手に「ああそう。それで?」程度で流れるはずの振り。
そこから徳井が勝手に舞い上がっていく誰も知らない世界。
そこについていく「普通の人」福田のリアクションが素晴らしい。
ほんの軽い気持ちで話しかけたら相手が危ない人だった……
普通、後じさりして去るだろう。
しかし福田は下がらない。漫才なんだから当然だが。
下がらないからには、舞い上がる徳井に全部反応しなければならない。
チュートリアルについては、大竹まことの「不安定な時代の象徴」がすべてだろう。
「普通の人」福田は、最初は戸惑い、うろたえ、パニックに陥り、
最後には自我の崩壊にまで至りそうになる。
そして視聴者は、福田の感情すべてを追体験できるのだ。
2007年、敗者復活からやってきたサンドウィッチマン。
やや汚れなのに、あの華やかな舞台で堂々と自分たちの世界を展開する。
爆笑した。優勝、むべなるかな。
2008年、決勝三組が終わったとき、ナイツかオードリーのどちらかだな、と確信していた。
NON STYLEは、ツッコミが嘘くさくて彼らの優勝はどうしても納得できなかった。
頭だけで漫才をやっている。人間性が見えない。
どちらにも失礼だけど、「劣化版・品川庄司」のような印象。
2003年から見てきて、「全然納得いかない」のは初めてだった。
2003年のフットボールアワー、笑い飯、アンタッチャブルの決戦をフットが制したのは納得した。
2004年から2007年までは本当に楽しかった。決勝から決戦まで、
面白いコンビもそうでないコンビも、応援しているコンビも、そうでないコンビも、
それなりに含めてエンタテイメントとして楽しかった。
2008年、ちょっとな、と感じて、2009年、そろそろM-1って限界なのかな、と。
パンクブーブーの優勝は、結果としてそれしかなかった、という消去法、と感じている。
ミニ・アンタッチャブルだけど、麒麟に似た可愛げがあるのがいい。
素の人間が多少透けて見えるのも漫才の魅力の一つだ。
まったく見せずに演技に徹するという新しいスタイルを作った笑い飯は、だからすごい。
好みではないが、笑い飯は本当にすごいエンタテイナーだと思う。
だが、笑い飯、南海キャンディーズ、パンクブーブー、で決勝にすべきではなかったか。
今年、何より納得いかないのは、南海キャンディーズの得点だ。
2004年の爆発力は、出オチだから当然で、それを再現するのは難しい。
だからずっと(漫才としては)くすぶってきた。
しかし今年の南海キャンディーズは、出オチが効かないのを理解した上で、
彼らにしかできない漫才をやった。
それを「前が本格的漫才だったから」という理由であの得点。
今回のM-1は、あちこちで議論を呼んでいるが、
わたしが一番納得いかないのは、決勝まで行けとは言わないまでも、
南海キャンディーズの評価が低すぎる点だ。
そして、NON STYLEが決勝に残ったことだ。
この7年間見てきて、タカトシの幕末ネタとか、ポイズンガールバンドの中日ネタとか、
鼻にもかけてもらえなかったけれど今でも忘れられないコンビ、ネタがたくさんある。
そして「なぜこんなコンビが決勝に?」も毎年ある。
今年がその最高値である。
本格派を極めるもよし。誰も通ったことのない道を究めるもよし。
それがM-1ではないのか。
ずっと「笑い飯」を評価してきたくせに、
南海キャンディーズだって初登場では高評価だったくせに。
本格派ナイツ、爆発力を身につけて、来年も決勝に帰ってこい。
笑い飯、数え方によっては参加資格がある、という話を聞いたので、
M-1に喧嘩を売らずに素直になって挑んでこい。
いや、もしかして、
「チュートの次はノンスタを売りたい」と会社が画策してると邪推して喧嘩売ったか?
下衆の勘ぐり(^_^)。
南海キャンディーズも、もう一回、練り直して練り直してチャレンジして欲しい。
それから、審査員に大竹まことを戻せ!!!!!!
来年も、見る。
優勝できなくても売れるオードリー、タカトシのような形もある。
というか、2003年のアンタッチャブル、
2004年の南海キャンディーズもそうだった。
それでも取りたいグランプリ。
その魔力が消えるまで、見続ける。
2009/12/05
2009年4月 父の死
4月8日午後7時25分。夫の父が亡くなった。77歳だった。
夫とわたしが結婚して19年。父とも19年間つきあってもらったことになる。 大好きな父だった。義父、なんて絶対書きたくない。
父は長く阪急関係の食堂系チェーンをまとめる会社に勤めていた。本社の偉い人が店の視察にくると、店長とちょっとしゃべって売り上げがどうのこうの、で、帰るのが普通らしい。 しかし父は店長との話はそこそこに、そそくさと厨房に入り、板前やシェフのところに行って、料理の話をたくさんしていたそうだ。作り方、ちょっとしたコツ、道具の手入れ…。元々料理好き、勉強好きな人が、さらにその腕に磨きをかけ、夫がわたしを初めて伊丹の実家に“結婚相手”として連れて行ったとき、それはそれは見事な懐石のフルコースを作って出してくれた。緊張していたわたしは、さらに緊張してしまった。ずいぶん後になって夫の弟が「親父も緊張して張り切ったんやろうけど、あれはやりすぎやったなあ」と笑っていた。
結婚後、盆暮れに夫の実家に帰るたび、「満漢全席かよっ!」とつっこみたくなるほどのごちそうと、満面の笑顔で迎えてくれた。わたしがお酒好きなのを喜んで、自分は持病のせいでほとんど飲めないのに、「きょうこさん、もう一杯、ほら、もう一杯」と、すすめてくれた。 夏に行くと、こそこそと冷蔵庫のところにやってきて、井村屋のあずきバーを出し、わたしや息子にもくれて「お母さんには内緒やでえ」と笑いながら、禁じられてる二本目を食べた。体重増加による心臓への負担を心配する母から、毎日きつくいろいろな禁止令が出ていて、普段は守っているのだが、わたしたちがいると、それを口実に高カロリーのおいしいものをいっぱい作って食べさせてくれた。自分もきっと、嬉しかったんだと思う。
会社を退職したあと、父は長年の夢であった飲食店経営を現実にするため、横浜にある蕎麦の学校に入った。そして母屋を店舗に改造し、自分たちは離れに住んで、開業した。伊丹では珍しい本格的な蕎麦屋であり、勤め時代の知り合いも含めていいお客さんがつき、厨房では父が出汁と料理、弟が手打ち蕎麦を担当してなかなか繁盛した。
夫とわたしが結婚するだいぶん前、父は最初の心臓発作で倒れた。そのとき「もうだめでしょう」と言われながら奇跡の生還を果たした。その後、長男がわたしと結婚して孫が生まれ、次男が結婚して、病気で引退した父の後を継いで蕎麦屋の立派な主となって明るい嫁さんと店を切り盛りし、手前味噌だが、父の晩年はそれなりに幸せであったのではないかと思う。
二度目に父が倒れたのは冬だった。わたしはすでに夫と結婚していた。「今度は覚悟してください」と医者から言われ、夫と息子とわたしも東京から深夜に駆けつけた。父は人工心肺で“生かされている”状態で、呼びかけに答えてくれることはなく、とうとう滞在中に父の意識は戻らず、仕事を休むのも限界に来て、後ろ髪引かれる思いで帰京した。 その後、再び父は意識を取り戻し、奇跡を起こした。夏休みに入り、伊丹を訪ねて、父母の住まいである離れのドアを開けると、「おーう、きょうこさん!」とあの満面の笑顔の父がいた。「わーっ、お父さん!生きてる!」「おーう、生きとるでえ(笑)」。そしてまた、あずきバーを食べ、ごちそうを食べた。
2009年3月半ば、父が三度目の入院をした。倒れたのではなく、母に付き添われて自分の足で歩いて病院に行き、その場で入院になった。弟からの電話によると、ずっと具合が悪く、今度入院したら家には帰れない、と当人も思っていたらしく、なかなか病院に行かなかったのだという。わたしはまだ鬱病で入院しているので、夫から電話がかかってきた。 「弟からこういう電話があった。相当悪い。今回はホンマに覚悟せなあかん」 電話の向こうの夫の冷静な声を聞いていて、わたしは泣き出してしまった。「いややいやや、お父さん死んじゃうなんて絶対いやや」。すると、夫が、今まで聞いたことのない言葉を発した。
「泣かんでくれ。俺かてつらいんや」
つらかったのか。
初めて気づいた。あまり感情の起伏のない人であり、そもそも夫の家族全体的に“情の薄い”、と言っても悪い意味ではなく、何事も非常にさっぱりしている、そういう印象を、特に夫に対して持っていたので、驚いてしまったのだ。 落ちついて考えれば、実の父の先が短いと知って、心安らかなわけはない。
父は、25年越しの心臓が全体の4分の一しか機能していないのに加え、白血病、高血圧、腎機能障害、肝機能障害、それらによる合併症…病気のデパート状態である。父が懸念していたとおり、入院してから日に日に弱ってゆき、弁護士の兄に「後のことは頼む」などと話していたらしい。 その頃に行ければよかったのだが、夫の仕事と息子の予備校の関係で、一週間ほどたって病院へ行った。そのときはもう、体中管だらけ、意識があるといやがって管を抜いてしまうので麻酔で完全に眠らされていた。「お父さん、きょうこです」。息子も、細い声で呼びかけた。もちろん返答はなかった。またもや帰京の日が来て、父と話せずに帰った。
毎日、兵庫県の伊丹から大阪の病院に通い続けている77歳の母、蕎麦屋を二人で切り盛りしつつ、合間に病院に行ったり、事務的な事で走り回ったりしている弟夫妻。一家の疲労は頂点に達しつつあった。
4月7日の朝6時。入院中のわたしは、起床してすぐ、日課であるレッツノートの電源を入れ、メールチェックをした。深夜に夫から3通もメールが届いており、表示されている冒頭の数文字だけで事態の深刻さがわかった。あわててナースステーションに走り、預けてある携帯を受け取り、夫にかけた。夫の声は落ちついていた。 「弟から電話があってな、お父さん、急激に血圧が落ちて、一番強い昇圧剤を使っても上が60いかんのやて。腎臓の透析もできへんし、もうあかんと思う」 。
すぐに外泊の手続きをし、先行した夫の後を追って新幹線に乗った。心はざわついている。途上、刻々とメールで連絡が来る。「血圧は50台。いつなんどきでもおかしくない。新大阪から病院へは、タクシーで直行して」。
病院に着くと、母、弟夫婦、夫が、一階のドトールにいた。想像していたより和やかな感じ。「今な、からだ拭いて着替えさせてもうてんねん。そやから時間待ち」。父は、超低空飛行のまま安定状態だという。着替えが終わって一緒に上に行った。父を苦しめたくない、という母の希望で延命措置は一切せず、人工心肺も外され、自力呼吸である。しかし管は相変わらずいろいろと入っており、麻酔で眠っている。「お父さん」と呼びかけたが、もちろん返事はない。
つくづく顔を眺めた。眉根が寄って、苦しそうな顔に見えた。「お父さん、しんどい?」。返事はない。すうー、すうー、と呼吸している。モニターの表示は、血圧上が50、心拍は速くなっていて120。意識があったらしんどいに決まっている。
3月に話せないまま帰京した後、父はみたび奇跡の快復力を見せ、ICUを出た、プリンを食べた、いすに座れた、と電話で聞いて喜んでいた。家に帰れないまでも、少しは家族との会話の時間をもてそうだ、と。しかし、おかゆを食べたとたんに腸捻転を起こし、それはもう七転八倒の痛みであり、速効麻酔で眠らされ、今現在の状態になってしまったのだという。先生は、もう意識を戻すことはできないでしょう、正直、今日中かもしれません、と。
息子はまだ東京にいた。「どうしても明日の予備校の講義を聴きたい。それから行く」と。きっと父も、受験生である孫がそこまでがんばっているのを喜んでくれるだろう、と、みんな考えて、もし会えなくてもそのときはそのとき、と割り切っていた。
7日の夜、伊丹に帰っていては、いざ呼び出しというときに間に合わないので、みんなで梅田の新阪急ホテルアネックスに泊まった。幸い、夜中に、緊急連絡先である弟の携帯は鳴らなかった。
8日の朝、病院に行くと、父の血圧は昨日のままだった。すうー、すうー、と、眠っている。ただ、小水と、腸に入れた管から出る液体は、明らかに減っている。わたしは伯母が亡くなる一部始終を見ていたので、それがどれほど危険な状態かはわかった。お医者さんからは、昨日と同じ説明があった。「かわいがっていたたった一人の孫が今日の夜到着するんですが」というと、心底困った顔をなさって「うーん…」と言ったきり黙ってしまった。
それはそれは、いい天気だった。抜けるような青空。病院の前は扇町公園という広々と開けた場所で、桜が見事に満開だった。グルメな弟がデパ地下でおいしい天むすを調達してきてくれて、公園の東屋で桜を見ながら、5人でランチをしつつ談笑した。父の状態が危険なまま安定しているので、だんだんみんなその状態に慣れてしまったようだ。昨日一日、気をはっていたし、売店のおにぎりとかパンとか、適当なものしか食べていなかったので、みんなよい息抜きになった。「お父さんのおかげで、みんなでこんな楽しいお昼ご飯食べられて、ホンマにありがたいねえ」と、母が笑った。
病院に戻って、交代に父の様子を見ながら、控え室にこもる。血圧40台で変化なし。正常なアタマで考えたら、それで生きていること自体奇跡なのだが、主治医まで「何度も奇跡を起こしている方ですからねえ」と言うほどだ。 「お父さん、今夜、あの子、くるからね、待っててね」と何度か呼びかけた。
夕方3時過ぎ、息子からメールが入った。「4時半の新幹線に乗る」。文面ではない。チケットの写メを送ってくるという、要領がいいというか、面倒くさがりというか。まあ情報はつたわっているわけだが。しかし確か、こちらに9時頃着くと言っていた記憶があるのだが。まあ、早いほうがよいにこしたことはない。「お父さん、7時半にはくるからね」と、また声をかけた。交互に父を見に行っては控え室に戻り、を繰り返していたが、息子からメールが来た頃には、一家そろって勝手に今夜も大丈夫だろう、という空気になっており、「餃子の王将で夕飯食べようか」なんて盛り上がっていた。
7時過ぎ、息子から「新大阪に着いた」とメールが来た。「すぐタクシーに乗って北野病院に来て」「わかった」。息子が来るめどが立ったので、わたしはホッとして、「一階に行ってあの子を待ってるね」とみんなに言って、エレベーターで降りた。足取りも軽く玄関に向かって歩いているとき、電話が鳴った。夫からだった。 「急変した。すぐ戻って」 「えっ、だって、あの子がもうすぐ」 「そんなこと言ってられないから、すぐ戻って」 アタマが混乱していた。だって、ついさっきまで、ずっと変わらなかったのに。今夜はみんなで餃子の王将に行こう、なんて笑ってたのに! 混乱したまま8階に上がった。そこに息子から電話が入った。「4階にいる」。この病院は「ICUは?」と聞くと4階と言われるのだ。「8階に来て、すぐ、お母さんエレベーターの前で待ってるから、すぐ、急いで!」と叫んで切った。動悸が収まらない。涙があふれる。異様な興奮状態にあった。ぽーん、とチャイムが鳴って息子が出てきた。「早く!」手を引いてICUに駆け込む。息子は急いで鞄を肩から外して荷物台に置き、一緒に父のベッドに向かった。
さっきまでオープンだったベッドは、カーテンで囲われていた。すでに心拍数はゼロ、最後の呼吸がかすかにあるかないか。 「じいちゃん、来たで、俺やで」 弟が黙って泣いていた。弟の妻も泣いていた。わたしも泣いていた。夫とお母さんは泣かずにじっと父を見ていた。 当直の先生が父のからだを改め、時計を見て、 「7時25分、ご臨終です」 と言った。 「お父さんっ!お父さんっ!」 嫁二人は号泣してすがりついた。弟の泪もあふれていた。お母さんは、微笑んでおとうさんのからだをさすり、 「ようがんばったねえ、ようがんばったねえ、お疲れさん、ようがんばったねえ」 と声をかけ続けていた。夫と息子は泣かなかった。
ひとしきり父との別れの時がすぎ、湯灌のため、家族は控え室で待機することになった。息子は、 「俺は父ちゃんの息子やから、絶対泣かへん」 と言った。彼なりの幼い矜恃なのだろう。本当に、幼い。17歳の。
さまざまな手続きを待つ間に息子に聞くと、本当はふたコマ授業があり、予備校に行きたいから、という理由で一日遅らせた手前、絶対講義には出なきゃ、と思って出たが、ふたコマ目はやめて大阪に向かったのだという。虫の知らせ、だろうか。そして、孫が新大阪に着いたとほぼ同時に急変した父。孫を待っていてくれたとしか思えない。 「間に合ったゆうても、結局話もできなかったし」 と、息子はぶっきらぼうに言う。そやねん。あんたも父ちゃんも母ちゃんも、お父さんと話をすることは、結局できなかってん。
父と最後に逢ったのは、ちょうど1年前、昨年の4月。 仕事だ、予備校だ、鬱病だ、とこれはわたしだけだが、なんだかんだで夏にも暮れにもなかなか伊丹に行けないので、お父さんの方から「観光をかねて東京に行きたい。ついては旅館をとって、一緒に泊まらないか」と提案してくれ、その通り、一緒に上野のホテルに泊まり、浅草やアメ横、オープンしたての六本木ミッドタウンなどに案内したときだ。父は結構ミーハーで、六本木ヒルズや原宿にも行きたがった。あまりたくさん行くのも無理なのでミッドタウンにしたのだが、何しろオープンしたて。ごった返してみんな疲れてしまった。父はつらかっただろうと思う。 浅草の雷門で写真を撮ったのは4月4日だった。『4月8日、花祭り』という看板が出ていて、あ、そうか、8日はお釈迦様の日だから、きっともっと賑やかだろうなあ、その日にあわせればよかったですねえ、などと話したけれど、息子がどうしても春期講習に出たい、という理由と旅館の空きを合わせて計画を立てると、その日程しか無理だったのだ。 旅館は5人で泊まるには狭い部屋だったが、お父さんもお母さんも文句を言わず、ニコニコして過ごしてくれた。どこに行っても息子と二人で並び、ピースサインを出して、写真を撮ってくれ、と言った父。デジカメで、携帯で、たくさん写真を撮った。父は健啖で顔色もよかったが、ちょっとでも坂道だと、ひどくしんどそうだった。二泊三日を一緒に過ごし、三日目の昼過ぎ、父と母は「二人で銀座でお寿司を食べて帰る」と言って地下鉄を降り、ガラス越しに互いに手を振った。
それが、意識のある父を見た最後になった。
そして、昨年話していた4月8日、お釈迦様の日、満開の桜と冴え冴えとした月の下で、父は逝った。
弟は涙も乾かぬうちに、各方面への連絡や事務手続きに走り回り、遺体の搬送、枕経の準備、翌日通夜、翌々日葬儀。 葬儀の最後、遺体との別れの時。それまで一切泣かず、臨終以後は絶対に死に顔を見ない、元気なときの顔を最後にしたい、と言っていた母が、棺の中に花を入れるとき、 「…こんなきれいな顔して…こんなきれいな顔して…」 と号泣した。 確かに、父の顔は亡くなると同時に眉根のしわも消え、日に日にきれいに、穏やかに、最後はほとんど笑顔になっていた。宗教を始め、いろいろなことを勉強してもはや何事も達観の域に達しているように思えた母も、やはりひとりの妻だった。5月半ばには金婚式を祝うはずだった。
嫁二人、通夜、葬儀の受付をしたりして、話す機会が多かったのだが、思うことは一緒。 「いっっっちどもいやな思い、させられへんかったね、お父さんに」 「大好きやったね、お父さん」 「わたしら、幸せな嫁やねー」 。
儀式が終わって自宅に戻ったとき、離れのドアを開けて父がいつも座っていた椅子のある空間に向かい、「おとうさん」、と言ってみた。涙があふれて止まらなかった。父の不在が、一気にのしかかってきた。母にはこれから、50年分の重さがかかってゆくのだろう。 書きたいことはまだまだたくさんある。でも、ここまではどうしても書きたかった。これで気持ちに区切りがつくわけではないし、まだ泣いてしまう。でも、書きたかった。 最後まで、こんな長いものを読んでくださった方がいらしたとしたら、どうもありがとうございました。
夫とわたしが結婚して19年。父とも19年間つきあってもらったことになる。 大好きな父だった。義父、なんて絶対書きたくない。
父は長く阪急関係の食堂系チェーンをまとめる会社に勤めていた。本社の偉い人が店の視察にくると、店長とちょっとしゃべって売り上げがどうのこうの、で、帰るのが普通らしい。 しかし父は店長との話はそこそこに、そそくさと厨房に入り、板前やシェフのところに行って、料理の話をたくさんしていたそうだ。作り方、ちょっとしたコツ、道具の手入れ…。元々料理好き、勉強好きな人が、さらにその腕に磨きをかけ、夫がわたしを初めて伊丹の実家に“結婚相手”として連れて行ったとき、それはそれは見事な懐石のフルコースを作って出してくれた。緊張していたわたしは、さらに緊張してしまった。ずいぶん後になって夫の弟が「親父も緊張して張り切ったんやろうけど、あれはやりすぎやったなあ」と笑っていた。
結婚後、盆暮れに夫の実家に帰るたび、「満漢全席かよっ!」とつっこみたくなるほどのごちそうと、満面の笑顔で迎えてくれた。わたしがお酒好きなのを喜んで、自分は持病のせいでほとんど飲めないのに、「きょうこさん、もう一杯、ほら、もう一杯」と、すすめてくれた。 夏に行くと、こそこそと冷蔵庫のところにやってきて、井村屋のあずきバーを出し、わたしや息子にもくれて「お母さんには内緒やでえ」と笑いながら、禁じられてる二本目を食べた。体重増加による心臓への負担を心配する母から、毎日きつくいろいろな禁止令が出ていて、普段は守っているのだが、わたしたちがいると、それを口実に高カロリーのおいしいものをいっぱい作って食べさせてくれた。自分もきっと、嬉しかったんだと思う。
会社を退職したあと、父は長年の夢であった飲食店経営を現実にするため、横浜にある蕎麦の学校に入った。そして母屋を店舗に改造し、自分たちは離れに住んで、開業した。伊丹では珍しい本格的な蕎麦屋であり、勤め時代の知り合いも含めていいお客さんがつき、厨房では父が出汁と料理、弟が手打ち蕎麦を担当してなかなか繁盛した。
夫とわたしが結婚するだいぶん前、父は最初の心臓発作で倒れた。そのとき「もうだめでしょう」と言われながら奇跡の生還を果たした。その後、長男がわたしと結婚して孫が生まれ、次男が結婚して、病気で引退した父の後を継いで蕎麦屋の立派な主となって明るい嫁さんと店を切り盛りし、手前味噌だが、父の晩年はそれなりに幸せであったのではないかと思う。
二度目に父が倒れたのは冬だった。わたしはすでに夫と結婚していた。「今度は覚悟してください」と医者から言われ、夫と息子とわたしも東京から深夜に駆けつけた。父は人工心肺で“生かされている”状態で、呼びかけに答えてくれることはなく、とうとう滞在中に父の意識は戻らず、仕事を休むのも限界に来て、後ろ髪引かれる思いで帰京した。 その後、再び父は意識を取り戻し、奇跡を起こした。夏休みに入り、伊丹を訪ねて、父母の住まいである離れのドアを開けると、「おーう、きょうこさん!」とあの満面の笑顔の父がいた。「わーっ、お父さん!生きてる!」「おーう、生きとるでえ(笑)」。そしてまた、あずきバーを食べ、ごちそうを食べた。
2009年3月半ば、父が三度目の入院をした。倒れたのではなく、母に付き添われて自分の足で歩いて病院に行き、その場で入院になった。弟からの電話によると、ずっと具合が悪く、今度入院したら家には帰れない、と当人も思っていたらしく、なかなか病院に行かなかったのだという。わたしはまだ鬱病で入院しているので、夫から電話がかかってきた。 「弟からこういう電話があった。相当悪い。今回はホンマに覚悟せなあかん」 電話の向こうの夫の冷静な声を聞いていて、わたしは泣き出してしまった。「いややいやや、お父さん死んじゃうなんて絶対いやや」。すると、夫が、今まで聞いたことのない言葉を発した。
「泣かんでくれ。俺かてつらいんや」
つらかったのか。
初めて気づいた。あまり感情の起伏のない人であり、そもそも夫の家族全体的に“情の薄い”、と言っても悪い意味ではなく、何事も非常にさっぱりしている、そういう印象を、特に夫に対して持っていたので、驚いてしまったのだ。 落ちついて考えれば、実の父の先が短いと知って、心安らかなわけはない。
父は、25年越しの心臓が全体の4分の一しか機能していないのに加え、白血病、高血圧、腎機能障害、肝機能障害、それらによる合併症…病気のデパート状態である。父が懸念していたとおり、入院してから日に日に弱ってゆき、弁護士の兄に「後のことは頼む」などと話していたらしい。 その頃に行ければよかったのだが、夫の仕事と息子の予備校の関係で、一週間ほどたって病院へ行った。そのときはもう、体中管だらけ、意識があるといやがって管を抜いてしまうので麻酔で完全に眠らされていた。「お父さん、きょうこです」。息子も、細い声で呼びかけた。もちろん返答はなかった。またもや帰京の日が来て、父と話せずに帰った。
毎日、兵庫県の伊丹から大阪の病院に通い続けている77歳の母、蕎麦屋を二人で切り盛りしつつ、合間に病院に行ったり、事務的な事で走り回ったりしている弟夫妻。一家の疲労は頂点に達しつつあった。
4月7日の朝6時。入院中のわたしは、起床してすぐ、日課であるレッツノートの電源を入れ、メールチェックをした。深夜に夫から3通もメールが届いており、表示されている冒頭の数文字だけで事態の深刻さがわかった。あわててナースステーションに走り、預けてある携帯を受け取り、夫にかけた。夫の声は落ちついていた。 「弟から電話があってな、お父さん、急激に血圧が落ちて、一番強い昇圧剤を使っても上が60いかんのやて。腎臓の透析もできへんし、もうあかんと思う」 。
すぐに外泊の手続きをし、先行した夫の後を追って新幹線に乗った。心はざわついている。途上、刻々とメールで連絡が来る。「血圧は50台。いつなんどきでもおかしくない。新大阪から病院へは、タクシーで直行して」。
病院に着くと、母、弟夫婦、夫が、一階のドトールにいた。想像していたより和やかな感じ。「今な、からだ拭いて着替えさせてもうてんねん。そやから時間待ち」。父は、超低空飛行のまま安定状態だという。着替えが終わって一緒に上に行った。父を苦しめたくない、という母の希望で延命措置は一切せず、人工心肺も外され、自力呼吸である。しかし管は相変わらずいろいろと入っており、麻酔で眠っている。「お父さん」と呼びかけたが、もちろん返事はない。
つくづく顔を眺めた。眉根が寄って、苦しそうな顔に見えた。「お父さん、しんどい?」。返事はない。すうー、すうー、と呼吸している。モニターの表示は、血圧上が50、心拍は速くなっていて120。意識があったらしんどいに決まっている。
3月に話せないまま帰京した後、父はみたび奇跡の快復力を見せ、ICUを出た、プリンを食べた、いすに座れた、と電話で聞いて喜んでいた。家に帰れないまでも、少しは家族との会話の時間をもてそうだ、と。しかし、おかゆを食べたとたんに腸捻転を起こし、それはもう七転八倒の痛みであり、速効麻酔で眠らされ、今現在の状態になってしまったのだという。先生は、もう意識を戻すことはできないでしょう、正直、今日中かもしれません、と。
息子はまだ東京にいた。「どうしても明日の予備校の講義を聴きたい。それから行く」と。きっと父も、受験生である孫がそこまでがんばっているのを喜んでくれるだろう、と、みんな考えて、もし会えなくてもそのときはそのとき、と割り切っていた。
7日の夜、伊丹に帰っていては、いざ呼び出しというときに間に合わないので、みんなで梅田の新阪急ホテルアネックスに泊まった。幸い、夜中に、緊急連絡先である弟の携帯は鳴らなかった。
8日の朝、病院に行くと、父の血圧は昨日のままだった。すうー、すうー、と、眠っている。ただ、小水と、腸に入れた管から出る液体は、明らかに減っている。わたしは伯母が亡くなる一部始終を見ていたので、それがどれほど危険な状態かはわかった。お医者さんからは、昨日と同じ説明があった。「かわいがっていたたった一人の孫が今日の夜到着するんですが」というと、心底困った顔をなさって「うーん…」と言ったきり黙ってしまった。
それはそれは、いい天気だった。抜けるような青空。病院の前は扇町公園という広々と開けた場所で、桜が見事に満開だった。グルメな弟がデパ地下でおいしい天むすを調達してきてくれて、公園の東屋で桜を見ながら、5人でランチをしつつ談笑した。父の状態が危険なまま安定しているので、だんだんみんなその状態に慣れてしまったようだ。昨日一日、気をはっていたし、売店のおにぎりとかパンとか、適当なものしか食べていなかったので、みんなよい息抜きになった。「お父さんのおかげで、みんなでこんな楽しいお昼ご飯食べられて、ホンマにありがたいねえ」と、母が笑った。
病院に戻って、交代に父の様子を見ながら、控え室にこもる。血圧40台で変化なし。正常なアタマで考えたら、それで生きていること自体奇跡なのだが、主治医まで「何度も奇跡を起こしている方ですからねえ」と言うほどだ。 「お父さん、今夜、あの子、くるからね、待っててね」と何度か呼びかけた。
夕方3時過ぎ、息子からメールが入った。「4時半の新幹線に乗る」。文面ではない。チケットの写メを送ってくるという、要領がいいというか、面倒くさがりというか。まあ情報はつたわっているわけだが。しかし確か、こちらに9時頃着くと言っていた記憶があるのだが。まあ、早いほうがよいにこしたことはない。「お父さん、7時半にはくるからね」と、また声をかけた。交互に父を見に行っては控え室に戻り、を繰り返していたが、息子からメールが来た頃には、一家そろって勝手に今夜も大丈夫だろう、という空気になっており、「餃子の王将で夕飯食べようか」なんて盛り上がっていた。
7時過ぎ、息子から「新大阪に着いた」とメールが来た。「すぐタクシーに乗って北野病院に来て」「わかった」。息子が来るめどが立ったので、わたしはホッとして、「一階に行ってあの子を待ってるね」とみんなに言って、エレベーターで降りた。足取りも軽く玄関に向かって歩いているとき、電話が鳴った。夫からだった。 「急変した。すぐ戻って」 「えっ、だって、あの子がもうすぐ」 「そんなこと言ってられないから、すぐ戻って」 アタマが混乱していた。だって、ついさっきまで、ずっと変わらなかったのに。今夜はみんなで餃子の王将に行こう、なんて笑ってたのに! 混乱したまま8階に上がった。そこに息子から電話が入った。「4階にいる」。この病院は「ICUは?」と聞くと4階と言われるのだ。「8階に来て、すぐ、お母さんエレベーターの前で待ってるから、すぐ、急いで!」と叫んで切った。動悸が収まらない。涙があふれる。異様な興奮状態にあった。ぽーん、とチャイムが鳴って息子が出てきた。「早く!」手を引いてICUに駆け込む。息子は急いで鞄を肩から外して荷物台に置き、一緒に父のベッドに向かった。
さっきまでオープンだったベッドは、カーテンで囲われていた。すでに心拍数はゼロ、最後の呼吸がかすかにあるかないか。 「じいちゃん、来たで、俺やで」 弟が黙って泣いていた。弟の妻も泣いていた。わたしも泣いていた。夫とお母さんは泣かずにじっと父を見ていた。 当直の先生が父のからだを改め、時計を見て、 「7時25分、ご臨終です」 と言った。 「お父さんっ!お父さんっ!」 嫁二人は号泣してすがりついた。弟の泪もあふれていた。お母さんは、微笑んでおとうさんのからだをさすり、 「ようがんばったねえ、ようがんばったねえ、お疲れさん、ようがんばったねえ」 と声をかけ続けていた。夫と息子は泣かなかった。
ひとしきり父との別れの時がすぎ、湯灌のため、家族は控え室で待機することになった。息子は、 「俺は父ちゃんの息子やから、絶対泣かへん」 と言った。彼なりの幼い矜恃なのだろう。本当に、幼い。17歳の。
さまざまな手続きを待つ間に息子に聞くと、本当はふたコマ授業があり、予備校に行きたいから、という理由で一日遅らせた手前、絶対講義には出なきゃ、と思って出たが、ふたコマ目はやめて大阪に向かったのだという。虫の知らせ、だろうか。そして、孫が新大阪に着いたとほぼ同時に急変した父。孫を待っていてくれたとしか思えない。 「間に合ったゆうても、結局話もできなかったし」 と、息子はぶっきらぼうに言う。そやねん。あんたも父ちゃんも母ちゃんも、お父さんと話をすることは、結局できなかってん。
父と最後に逢ったのは、ちょうど1年前、昨年の4月。 仕事だ、予備校だ、鬱病だ、とこれはわたしだけだが、なんだかんだで夏にも暮れにもなかなか伊丹に行けないので、お父さんの方から「観光をかねて東京に行きたい。ついては旅館をとって、一緒に泊まらないか」と提案してくれ、その通り、一緒に上野のホテルに泊まり、浅草やアメ横、オープンしたての六本木ミッドタウンなどに案内したときだ。父は結構ミーハーで、六本木ヒルズや原宿にも行きたがった。あまりたくさん行くのも無理なのでミッドタウンにしたのだが、何しろオープンしたて。ごった返してみんな疲れてしまった。父はつらかっただろうと思う。 浅草の雷門で写真を撮ったのは4月4日だった。『4月8日、花祭り』という看板が出ていて、あ、そうか、8日はお釈迦様の日だから、きっともっと賑やかだろうなあ、その日にあわせればよかったですねえ、などと話したけれど、息子がどうしても春期講習に出たい、という理由と旅館の空きを合わせて計画を立てると、その日程しか無理だったのだ。 旅館は5人で泊まるには狭い部屋だったが、お父さんもお母さんも文句を言わず、ニコニコして過ごしてくれた。どこに行っても息子と二人で並び、ピースサインを出して、写真を撮ってくれ、と言った父。デジカメで、携帯で、たくさん写真を撮った。父は健啖で顔色もよかったが、ちょっとでも坂道だと、ひどくしんどそうだった。二泊三日を一緒に過ごし、三日目の昼過ぎ、父と母は「二人で銀座でお寿司を食べて帰る」と言って地下鉄を降り、ガラス越しに互いに手を振った。
それが、意識のある父を見た最後になった。
そして、昨年話していた4月8日、お釈迦様の日、満開の桜と冴え冴えとした月の下で、父は逝った。
弟は涙も乾かぬうちに、各方面への連絡や事務手続きに走り回り、遺体の搬送、枕経の準備、翌日通夜、翌々日葬儀。 葬儀の最後、遺体との別れの時。それまで一切泣かず、臨終以後は絶対に死に顔を見ない、元気なときの顔を最後にしたい、と言っていた母が、棺の中に花を入れるとき、 「…こんなきれいな顔して…こんなきれいな顔して…」 と号泣した。 確かに、父の顔は亡くなると同時に眉根のしわも消え、日に日にきれいに、穏やかに、最後はほとんど笑顔になっていた。宗教を始め、いろいろなことを勉強してもはや何事も達観の域に達しているように思えた母も、やはりひとりの妻だった。5月半ばには金婚式を祝うはずだった。
嫁二人、通夜、葬儀の受付をしたりして、話す機会が多かったのだが、思うことは一緒。 「いっっっちどもいやな思い、させられへんかったね、お父さんに」 「大好きやったね、お父さん」 「わたしら、幸せな嫁やねー」 。
儀式が終わって自宅に戻ったとき、離れのドアを開けて父がいつも座っていた椅子のある空間に向かい、「おとうさん」、と言ってみた。涙があふれて止まらなかった。父の不在が、一気にのしかかってきた。母にはこれから、50年分の重さがかかってゆくのだろう。 書きたいことはまだまだたくさんある。でも、ここまではどうしても書きたかった。これで気持ちに区切りがつくわけではないし、まだ泣いてしまう。でも、書きたかった。 最後まで、こんな長いものを読んでくださった方がいらしたとしたら、どうもありがとうございました。
登録:
投稿 (Atom)