2009/12/25

2009年M-1グランプリ

ブログだし、当然のことながら個人の勝手な感じ方である。
笑い飯を初めてみたのは、2003年のM-1だった。
奈良の博物館ネタは笑い死ぬかと思うほど面白かった。
けれど、笑い飯よりフットボールアワーより、アンタッチャブルに爆笑した。
ツッコミはちょっとガラが悪いけれど、それが笑える。ボケの深みが段違い。
ツッコミは横山やすしを彷彿とさせ、ボケは見たことのないおかしさだった。
2004年、アンタッチャブル以外に面白かったのは、一本目の南海キャンディーズだけだった。
アンタッチャブルの爆発力はすさまじく、前年より格段に「品」がついていた。
笑い飯は自ら「優勝候補です」と言って自分にプレッシャーをかける。
そして、つまらなかった。以後、一度も面白いと思ったことはない。
2005年、一本目から、ブラックマヨネーズの優勝は目に見えていた。
しばらく、ボウリングの話になると思い出し笑いするほどおかしかった。
が、チュートリアルの5位は納得がいかなかった。「ボタテホタテ」にお腹が痛くなった。
なぜ? こんなに面白いのに? 決勝に残って当然でしょ?
2006年、チュートリアルのダントツだった。去年の雪辱。
去年との大きな違い、福田がうまくなった。
ごくごく日常の会話。どうでもいい会話。どうでもいい話題。
冷蔵庫を買った、自転車のベルをなくした。
どうでもいい話。相手に「ああそう。それで?」程度で流れるはずの振り。
そこから徳井が勝手に舞い上がっていく誰も知らない世界。
そこについていく「普通の人」福田のリアクションが素晴らしい。
ほんの軽い気持ちで話しかけたら相手が危ない人だった……
普通、後じさりして去るだろう。
しかし福田は下がらない。漫才なんだから当然だが。
下がらないからには、舞い上がる徳井に全部反応しなければならない。
チュートリアルについては、大竹まことの「不安定な時代の象徴」がすべてだろう。
「普通の人」福田は、最初は戸惑い、うろたえ、パニックに陥り、
最後には自我の崩壊にまで至りそうになる。
そして視聴者は、福田の感情すべてを追体験できるのだ。
2007年、敗者復活からやってきたサンドウィッチマン。
やや汚れなのに、あの華やかな舞台で堂々と自分たちの世界を展開する。
爆笑した。優勝、むべなるかな。
2008年、決勝三組が終わったとき、ナイツかオードリーのどちらかだな、と確信していた。
NON STYLEは、ツッコミが嘘くさくて彼らの優勝はどうしても納得できなかった。
頭だけで漫才をやっている。人間性が見えない。
どちらにも失礼だけど、「劣化版・品川庄司」のような印象。
2003年から見てきて、「全然納得いかない」のは初めてだった。
2003年のフットボールアワー、笑い飯、アンタッチャブルの決戦をフットが制したのは納得した。
2004年から2007年までは本当に楽しかった。決勝から決戦まで、
面白いコンビもそうでないコンビも、応援しているコンビも、そうでないコンビも、
それなりに含めてエンタテイメントとして楽しかった。
2008年、ちょっとな、と感じて、2009年、そろそろM-1って限界なのかな、と。
パンクブーブーの優勝は、結果としてそれしかなかった、という消去法、と感じている。
ミニ・アンタッチャブルだけど、麒麟に似た可愛げがあるのがいい。
素の人間が多少透けて見えるのも漫才の魅力の一つだ。
まったく見せずに演技に徹するという新しいスタイルを作った笑い飯は、だからすごい。
好みではないが、笑い飯は本当にすごいエンタテイナーだと思う。
だが、笑い飯、南海キャンディーズ、パンクブーブー、で決勝にすべきではなかったか。
今年、何より納得いかないのは、南海キャンディーズの得点だ。
2004年の爆発力は、出オチだから当然で、それを再現するのは難しい。
だからずっと(漫才としては)くすぶってきた。
しかし今年の南海キャンディーズは、出オチが効かないのを理解した上で、
彼らにしかできない漫才をやった。
それを「前が本格的漫才だったから」という理由であの得点。
今回のM-1は、あちこちで議論を呼んでいるが、
わたしが一番納得いかないのは、決勝まで行けとは言わないまでも、
南海キャンディーズの評価が低すぎる点だ。
そして、NON STYLEが決勝に残ったことだ。
この7年間見てきて、タカトシの幕末ネタとか、ポイズンガールバンドの中日ネタとか、
鼻にもかけてもらえなかったけれど今でも忘れられないコンビ、ネタがたくさんある。
そして「なぜこんなコンビが決勝に?」も毎年ある。
今年がその最高値である。
本格派を極めるもよし。誰も通ったことのない道を究めるもよし。
それがM-1ではないのか。
ずっと「笑い飯」を評価してきたくせに、
南海キャンディーズだって初登場では高評価だったくせに。
本格派ナイツ、爆発力を身につけて、来年も決勝に帰ってこい。
笑い飯、数え方によっては参加資格がある、という話を聞いたので、
M-1に喧嘩を売らずに素直になって挑んでこい。
いや、もしかして、
「チュートの次はノンスタを売りたい」と会社が画策してると邪推して喧嘩売ったか?
下衆の勘ぐり(^_^)。
南海キャンディーズも、もう一回、練り直して練り直してチャレンジして欲しい。
それから、審査員に大竹まことを戻せ!!!!!!
来年も、見る。
優勝できなくても売れるオードリー、タカトシのような形もある。
というか、2003年のアンタッチャブル、
2004年の南海キャンディーズもそうだった。
それでも取りたいグランプリ。
その魔力が消えるまで、見続ける。

2009/12/05

2009年4月 父の死

4月8日午後7時25分。夫の父が亡くなった。77歳だった。


 夫とわたしが結婚して19年。父とも19年間つきあってもらったことになる。 大好きな父だった。義父、なんて絶対書きたくない。 


 父は長く阪急関係の食堂系チェーンをまとめる会社に勤めていた。本社の偉い人が店の視察にくると、店長とちょっとしゃべって売り上げがどうのこうの、で、帰るのが普通らしい。 しかし父は店長との話はそこそこに、そそくさと厨房に入り、板前やシェフのところに行って、料理の話をたくさんしていたそうだ。作り方、ちょっとしたコツ、道具の手入れ…。元々料理好き、勉強好きな人が、さらにその腕に磨きをかけ、夫がわたしを初めて伊丹の実家に“結婚相手”として連れて行ったとき、それはそれは見事な懐石のフルコースを作って出してくれた。緊張していたわたしは、さらに緊張してしまった。ずいぶん後になって夫の弟が「親父も緊張して張り切ったんやろうけど、あれはやりすぎやったなあ」と笑っていた。


 結婚後、盆暮れに夫の実家に帰るたび、「満漢全席かよっ!」とつっこみたくなるほどのごちそうと、満面の笑顔で迎えてくれた。わたしがお酒好きなのを喜んで、自分は持病のせいでほとんど飲めないのに、「きょうこさん、もう一杯、ほら、もう一杯」と、すすめてくれた。 夏に行くと、こそこそと冷蔵庫のところにやってきて、井村屋のあずきバーを出し、わたしや息子にもくれて「お母さんには内緒やでえ」と笑いながら、禁じられてる二本目を食べた。体重増加による心臓への負担を心配する母から、毎日きつくいろいろな禁止令が出ていて、普段は守っているのだが、わたしたちがいると、それを口実に高カロリーのおいしいものをいっぱい作って食べさせてくれた。自分もきっと、嬉しかったんだと思う。 


 会社を退職したあと、父は長年の夢であった飲食店経営を現実にするため、横浜にある蕎麦の学校に入った。そして母屋を店舗に改造し、自分たちは離れに住んで、開業した。伊丹では珍しい本格的な蕎麦屋であり、勤め時代の知り合いも含めていいお客さんがつき、厨房では父が出汁と料理、弟が手打ち蕎麦を担当してなかなか繁盛した。 


 夫とわたしが結婚するだいぶん前、父は最初の心臓発作で倒れた。そのとき「もうだめでしょう」と言われながら奇跡の生還を果たした。その後、長男がわたしと結婚して孫が生まれ、次男が結婚して、病気で引退した父の後を継いで蕎麦屋の立派な主となって明るい嫁さんと店を切り盛りし、手前味噌だが、父の晩年はそれなりに幸せであったのではないかと思う。


 二度目に父が倒れたのは冬だった。わたしはすでに夫と結婚していた。「今度は覚悟してください」と医者から言われ、夫と息子とわたしも東京から深夜に駆けつけた。父は人工心肺で“生かされている”状態で、呼びかけに答えてくれることはなく、とうとう滞在中に父の意識は戻らず、仕事を休むのも限界に来て、後ろ髪引かれる思いで帰京した。 その後、再び父は意識を取り戻し、奇跡を起こした。夏休みに入り、伊丹を訪ねて、父母の住まいである離れのドアを開けると、「おーう、きょうこさん!」とあの満面の笑顔の父がいた。「わーっ、お父さん!生きてる!」「おーう、生きとるでえ(笑)」。そしてまた、あずきバーを食べ、ごちそうを食べた。


 2009年3月半ば、父が三度目の入院をした。倒れたのではなく、母に付き添われて自分の足で歩いて病院に行き、その場で入院になった。弟からの電話によると、ずっと具合が悪く、今度入院したら家には帰れない、と当人も思っていたらしく、なかなか病院に行かなかったのだという。わたしはまだ鬱病で入院しているので、夫から電話がかかってきた。 「弟からこういう電話があった。相当悪い。今回はホンマに覚悟せなあかん」 電話の向こうの夫の冷静な声を聞いていて、わたしは泣き出してしまった。「いややいやや、お父さん死んじゃうなんて絶対いやや」。すると、夫が、今まで聞いたことのない言葉を発した。


 「泣かんでくれ。俺かてつらいんや」


 つらかったのか。


初めて気づいた。あまり感情の起伏のない人であり、そもそも夫の家族全体的に“情の薄い”、と言っても悪い意味ではなく、何事も非常にさっぱりしている、そういう印象を、特に夫に対して持っていたので、驚いてしまったのだ。 落ちついて考えれば、実の父の先が短いと知って、心安らかなわけはない。 


 父は、25年越しの心臓が全体の4分の一しか機能していないのに加え、白血病、高血圧、腎機能障害、肝機能障害、それらによる合併症…病気のデパート状態である。父が懸念していたとおり、入院してから日に日に弱ってゆき、弁護士の兄に「後のことは頼む」などと話していたらしい。 その頃に行ければよかったのだが、夫の仕事と息子の予備校の関係で、一週間ほどたって病院へ行った。そのときはもう、体中管だらけ、意識があるといやがって管を抜いてしまうので麻酔で完全に眠らされていた。「お父さん、きょうこです」。息子も、細い声で呼びかけた。もちろん返答はなかった。またもや帰京の日が来て、父と話せずに帰った。


 毎日、兵庫県の伊丹から大阪の病院に通い続けている77歳の母、蕎麦屋を二人で切り盛りしつつ、合間に病院に行ったり、事務的な事で走り回ったりしている弟夫妻。一家の疲労は頂点に達しつつあった。


 4月7日の朝6時。入院中のわたしは、起床してすぐ、日課であるレッツノートの電源を入れ、メールチェックをした。深夜に夫から3通もメールが届いており、表示されている冒頭の数文字だけで事態の深刻さがわかった。あわててナースステーションに走り、預けてある携帯を受け取り、夫にかけた。夫の声は落ちついていた。 「弟から電話があってな、お父さん、急激に血圧が落ちて、一番強い昇圧剤を使っても上が60いかんのやて。腎臓の透析もできへんし、もうあかんと思う」 。


すぐに外泊の手続きをし、先行した夫の後を追って新幹線に乗った。心はざわついている。途上、刻々とメールで連絡が来る。「血圧は50台。いつなんどきでもおかしくない。新大阪から病院へは、タクシーで直行して」。 


 病院に着くと、母、弟夫婦、夫が、一階のドトールにいた。想像していたより和やかな感じ。「今な、からだ拭いて着替えさせてもうてんねん。そやから時間待ち」。父は、超低空飛行のまま安定状態だという。着替えが終わって一緒に上に行った。父を苦しめたくない、という母の希望で延命措置は一切せず、人工心肺も外され、自力呼吸である。しかし管は相変わらずいろいろと入っており、麻酔で眠っている。「お父さん」と呼びかけたが、もちろん返事はない。


つくづく顔を眺めた。眉根が寄って、苦しそうな顔に見えた。「お父さん、しんどい?」。返事はない。すうー、すうー、と呼吸している。モニターの表示は、血圧上が50、心拍は速くなっていて120。意識があったらしんどいに決まっている。


 3月に話せないまま帰京した後、父はみたび奇跡の快復力を見せ、ICUを出た、プリンを食べた、いすに座れた、と電話で聞いて喜んでいた。家に帰れないまでも、少しは家族との会話の時間をもてそうだ、と。しかし、おかゆを食べたとたんに腸捻転を起こし、それはもう七転八倒の痛みであり、速効麻酔で眠らされ、今現在の状態になってしまったのだという。先生は、もう意識を戻すことはできないでしょう、正直、今日中かもしれません、と。


 息子はまだ東京にいた。「どうしても明日の予備校の講義を聴きたい。それから行く」と。きっと父も、受験生である孫がそこまでがんばっているのを喜んでくれるだろう、と、みんな考えて、もし会えなくてもそのときはそのとき、と割り切っていた。


 7日の夜、伊丹に帰っていては、いざ呼び出しというときに間に合わないので、みんなで梅田の新阪急ホテルアネックスに泊まった。幸い、夜中に、緊急連絡先である弟の携帯は鳴らなかった。 


 8日の朝、病院に行くと、父の血圧は昨日のままだった。すうー、すうー、と、眠っている。ただ、小水と、腸に入れた管から出る液体は、明らかに減っている。わたしは伯母が亡くなる一部始終を見ていたので、それがどれほど危険な状態かはわかった。お医者さんからは、昨日と同じ説明があった。「かわいがっていたたった一人の孫が今日の夜到着するんですが」というと、心底困った顔をなさって「うーん…」と言ったきり黙ってしまった。 


 それはそれは、いい天気だった。抜けるような青空。病院の前は扇町公園という広々と開けた場所で、桜が見事に満開だった。グルメな弟がデパ地下でおいしい天むすを調達してきてくれて、公園の東屋で桜を見ながら、5人でランチをしつつ談笑した。父の状態が危険なまま安定しているので、だんだんみんなその状態に慣れてしまったようだ。昨日一日、気をはっていたし、売店のおにぎりとかパンとか、適当なものしか食べていなかったので、みんなよい息抜きになった。「お父さんのおかげで、みんなでこんな楽しいお昼ご飯食べられて、ホンマにありがたいねえ」と、母が笑った。 


 病院に戻って、交代に父の様子を見ながら、控え室にこもる。血圧40台で変化なし。正常なアタマで考えたら、それで生きていること自体奇跡なのだが、主治医まで「何度も奇跡を起こしている方ですからねえ」と言うほどだ。 「お父さん、今夜、あの子、くるからね、待っててね」と何度か呼びかけた。


夕方3時過ぎ、息子からメールが入った。「4時半の新幹線に乗る」。文面ではない。チケットの写メを送ってくるという、要領がいいというか、面倒くさがりというか。まあ情報はつたわっているわけだが。しかし確か、こちらに9時頃着くと言っていた記憶があるのだが。まあ、早いほうがよいにこしたことはない。「お父さん、7時半にはくるからね」と、また声をかけた。交互に父を見に行っては控え室に戻り、を繰り返していたが、息子からメールが来た頃には、一家そろって勝手に今夜も大丈夫だろう、という空気になっており、「餃子の王将で夕飯食べようか」なんて盛り上がっていた。


 7時過ぎ、息子から「新大阪に着いた」とメールが来た。「すぐタクシーに乗って北野病院に来て」「わかった」。息子が来るめどが立ったので、わたしはホッとして、「一階に行ってあの子を待ってるね」とみんなに言って、エレベーターで降りた。足取りも軽く玄関に向かって歩いているとき、電話が鳴った。夫からだった。 「急変した。すぐ戻って」 「えっ、だって、あの子がもうすぐ」 「そんなこと言ってられないから、すぐ戻って」 アタマが混乱していた。だって、ついさっきまで、ずっと変わらなかったのに。今夜はみんなで餃子の王将に行こう、なんて笑ってたのに! 混乱したまま8階に上がった。そこに息子から電話が入った。「4階にいる」。この病院は「ICUは?」と聞くと4階と言われるのだ。「8階に来て、すぐ、お母さんエレベーターの前で待ってるから、すぐ、急いで!」と叫んで切った。動悸が収まらない。涙があふれる。異様な興奮状態にあった。ぽーん、とチャイムが鳴って息子が出てきた。「早く!」手を引いてICUに駆け込む。息子は急いで鞄を肩から外して荷物台に置き、一緒に父のベッドに向かった。


さっきまでオープンだったベッドは、カーテンで囲われていた。すでに心拍数はゼロ、最後の呼吸がかすかにあるかないか。 「じいちゃん、来たで、俺やで」 弟が黙って泣いていた。弟の妻も泣いていた。わたしも泣いていた。夫とお母さんは泣かずにじっと父を見ていた。 当直の先生が父のからだを改め、時計を見て、 「7時25分、ご臨終です」 と言った。 「お父さんっ!お父さんっ!」 嫁二人は号泣してすがりついた。弟の泪もあふれていた。お母さんは、微笑んでおとうさんのからだをさすり、 「ようがんばったねえ、ようがんばったねえ、お疲れさん、ようがんばったねえ」 と声をかけ続けていた。夫と息子は泣かなかった。


ひとしきり父との別れの時がすぎ、湯灌のため、家族は控え室で待機することになった。息子は、 「俺は父ちゃんの息子やから、絶対泣かへん」 と言った。彼なりの幼い矜恃なのだろう。本当に、幼い。17歳の。 


 さまざまな手続きを待つ間に息子に聞くと、本当はふたコマ授業があり、予備校に行きたいから、という理由で一日遅らせた手前、絶対講義には出なきゃ、と思って出たが、ふたコマ目はやめて大阪に向かったのだという。虫の知らせ、だろうか。そして、孫が新大阪に着いたとほぼ同時に急変した父。孫を待っていてくれたとしか思えない。 「間に合ったゆうても、結局話もできなかったし」 と、息子はぶっきらぼうに言う。そやねん。あんたも父ちゃんも母ちゃんも、お父さんと話をすることは、結局できなかってん。


 父と最後に逢ったのは、ちょうど1年前、昨年の4月。 仕事だ、予備校だ、鬱病だ、とこれはわたしだけだが、なんだかんだで夏にも暮れにもなかなか伊丹に行けないので、お父さんの方から「観光をかねて東京に行きたい。ついては旅館をとって、一緒に泊まらないか」と提案してくれ、その通り、一緒に上野のホテルに泊まり、浅草やアメ横、オープンしたての六本木ミッドタウンなどに案内したときだ。父は結構ミーハーで、六本木ヒルズや原宿にも行きたがった。あまりたくさん行くのも無理なのでミッドタウンにしたのだが、何しろオープンしたて。ごった返してみんな疲れてしまった。父はつらかっただろうと思う。 浅草の雷門で写真を撮ったのは4月4日だった。『4月8日、花祭り』という看板が出ていて、あ、そうか、8日はお釈迦様の日だから、きっともっと賑やかだろうなあ、その日にあわせればよかったですねえ、などと話したけれど、息子がどうしても春期講習に出たい、という理由と旅館の空きを合わせて計画を立てると、その日程しか無理だったのだ。 旅館は5人で泊まるには狭い部屋だったが、お父さんもお母さんも文句を言わず、ニコニコして過ごしてくれた。どこに行っても息子と二人で並び、ピースサインを出して、写真を撮ってくれ、と言った父。デジカメで、携帯で、たくさん写真を撮った。父は健啖で顔色もよかったが、ちょっとでも坂道だと、ひどくしんどそうだった。二泊三日を一緒に過ごし、三日目の昼過ぎ、父と母は「二人で銀座でお寿司を食べて帰る」と言って地下鉄を降り、ガラス越しに互いに手を振った。


 それが、意識のある父を見た最後になった。


そして、昨年話していた4月8日、お釈迦様の日、満開の桜と冴え冴えとした月の下で、父は逝った。 


 弟は涙も乾かぬうちに、各方面への連絡や事務手続きに走り回り、遺体の搬送、枕経の準備、翌日通夜、翌々日葬儀。 葬儀の最後、遺体との別れの時。それまで一切泣かず、臨終以後は絶対に死に顔を見ない、元気なときの顔を最後にしたい、と言っていた母が、棺の中に花を入れるとき、 「…こんなきれいな顔して…こんなきれいな顔して…」 と号泣した。 確かに、父の顔は亡くなると同時に眉根のしわも消え、日に日にきれいに、穏やかに、最後はほとんど笑顔になっていた。宗教を始め、いろいろなことを勉強してもはや何事も達観の域に達しているように思えた母も、やはりひとりの妻だった。5月半ばには金婚式を祝うはずだった。 


 嫁二人、通夜、葬儀の受付をしたりして、話す機会が多かったのだが、思うことは一緒。 「いっっっちどもいやな思い、させられへんかったね、お父さんに」 「大好きやったね、お父さん」 「わたしら、幸せな嫁やねー」 。


儀式が終わって自宅に戻ったとき、離れのドアを開けて父がいつも座っていた椅子のある空間に向かい、「おとうさん」、と言ってみた。涙があふれて止まらなかった。父の不在が、一気にのしかかってきた。母にはこれから、50年分の重さがかかってゆくのだろう。 書きたいことはまだまだたくさんある。でも、ここまではどうしても書きたかった。これで気持ちに区切りがつくわけではないし、まだ泣いてしまう。でも、書きたかった。 最後まで、こんな長いものを読んでくださった方がいらしたとしたら、どうもありがとうございました。