2014/11/15

ジャージーボーイズ 完全ネタバレ感想妄想

※未見の方は絶対に読まないでください。


二度観てやっと、もやもやが晴れた。
好きだからこそ舞い上がって勘違いしていたところも修正できた。
この映画は、フランキー・バリを中心にした「boys」の物語だが、正確にいうとフランキー・バリという天使を、第三者が温かく見守り続ける物語だ。
メンバーやマフィアのボスほか地元の人々、地元出身の音楽プロデューサー……
そして、神。
神という言い方をしてみるが、ほかに浮かばないからだ。
いずれ日本語版のDVDが発売されたら購入して確かめたいのだが、
・すべてのシーンにフランキーが出ている
・もしくはフランキーへの言及があるか関係している
フランキー、フランキー、フランキー、あんたらどんだけフランキーが好きなんだ。
物語が後半にさしかかり、はじめて、フランキー不在のシーンが登場する。
「フランキーはシナトラを超えるぜ」と仲間が言っていた、そのあこがれの“シナトラスイート”でのどんちゃんパーティ。
その前にもパーティシーンがある。シェリーの大ヒットでスターへの階段を昇り始めた年のクリスマスパーティだ。フランキー・バリとフォーシーズンズの音楽面の屋台骨と行ってもいいボブ・ゴーディオにメンバーたちが送ったクリスマスプレゼントは、卒業。後日、この話が “December 1963” となるんだなあ、とファンならわかる。ウィキペディアによると、この曲はもともと、禁酒法が廃止された1933年の夜を「なんて素晴らしい夜!」と歌ううただったらしい。しかし、フランキーと、ゴーディオのパートナーであるジュディ・パーカーの強い意見によって、少年卒業の歌になったとある。なるほど、禁酒法がなくなってうれしいな、だったらこんなにヒットしなかっただろうな。しかも最初のタイトルは” December 5th, 1933”。内容が変わっただけではなく、「1963年の年も押し詰まった頃」というぼやかし方が実にいい。ねえ、そういうときを、日付で覚えていて、まあ、当人は覚えていてもいいんだけど、歌われてもねえ。これはぼやけてるからいいんですよね。ちなみに英国ドラマ「シャーロック」で、この曲はとても印象的なシーンで使われている。思わず泣きました。前後がわかってる人にしか意味がないんだけども。
ともあれ、このパーティはフランキーも大いに楽しみ、ゴーディオの卒業をともに祝った。
しかし、二度目のパーティにフランキーはいない。いないことは、あとでわかる。「こいよ」と自宅で電話を受けるフランキー。行かないフランキー。家族と過ごすクリスマス。形だけの家族。
フランキーの一人称は、舞台から引き継いだモノローグをのぞいて、ほぼ出てこない。語るフランキーはいる。しかしそれは一人称ではなく、仲間、もしくは神の視点だ。
「誰がフランキーをどんなに愛したか、どんなに買っていたか」
の物語。
『風立ちぬ』に、なんとなくつながる。あの映画も、堀越二郎という天才を愛した人たちの映画だ。しかし、二郎の一人称の映画だ。すべての映像は二郎の観た映像だ。世界だ。それがすごいんだけど。ジャージーボーイズは、フランキーを見る人々の映像だ。これもすごいんだ。
フランキーは愚直に素直に天才を貫く。
ニューヨーク通勤圏のニュージャージー州でありながら、裕福とはお世辞にもいえない地域に住む、イタリア移民の世界。それが天才をあたたかく育んだ大きなもうひとりの母。この映画は、アメリカで作られたイタリア映画のような、不思議な感覚をはらむ。あ、クリント・イーストウッドといえば、カウボーイですなあ。この映画でもローハイドでカメオ出演してます。マカロニウェスタンなんて言葉がはやったのはいつだったかなあ。
そしてフランキーは、身近な人を幸せにできない。この悲しみ。愛しているのに。愛してるのに。家族のために歌って歌って歌い続けているのに。
ツアーで留守ばかりの父に娘が問う。
Dad, do you love me?
これはごくふつうの会話だ。アメリカだから。
ところがそのあと、娘はこう問う。
Do you like me?
フランキーは、娘をどのくらい好きかどんなふうに表現すればいいのか胸いっぱいになりながら必死に言葉を探し、娘を強く強く抱きしめる。
二度目に観たあと、一緒に観た友だちもここにすごくぐっときていたのがわかって盛り上がった。
Loveより、Like、なんだね!!
フランキーはツアー先の取材に来た女性記者と恋に落ちる。家で飲んだくれてあれている妻に愛想を尽かし、新たな結婚を考えている。しかし、彼女も去る。
妻だって、がんばって落とした(落とされた)女だし、あんなに愛していたし、仲良かったし、イタリアだし、バリィではなく、バリ、にしなさい、といってくれた最高に色っぽい姉さん女房。イタリアだから、って簡単に言っちゃうけど、イタリアの母って強いじゃないですか。イタリア映画の母は。昔のね。実際、この映画始まってすぐに登場するフランキーの両親、まあお母さんの強いこと。お父さんの台詞は「ママの言うとおりだ」「ママの言うことをきけ」。イタリアの母は強い、何があっても子どもを守る。フランキーは妻のメアリーにそれを求めたのでしょう。そして、それは、あまりにも重かった。ダメ夫でも一緒にいればいいけど、フランキーはツアーで一年のほとんどをよそで過ごす。そんな夫、そんな父親、イタリアじゃだめだろ。道、だよね。旅芸人だよ。家庭なんか持っちゃダメなんだ。
このヒット曲の裏にはこんなエピソードが、というのはフィクションでも事実でもどっちでもいい。全部嘘ではないし、時系列の変更や後付けや完全なドラマタイズもある。
いちばんつらい事実は、映画の中でドラッグで娘を失うフランキー、実際はその前に交通事故でもうひとり娘を亡くしている。それでも歌う。歌い続ける。
「ボブ・ゴーディオは家で家族と過ごす。僕は旅に出て歌い続けた。年に220日」
日数はうろ覚えだけど。
 借金でトミーが消え、我慢に我慢を重ねていたニックが爆発して消え、残ったボブとふたり、天才ふたりで商売にはなるけれども、ボブは作曲家として家にいる。フランキーはひとりぼっちでツアー、ツアー、ツアー、ツアー。ツアーと言えば聞こえのいいクラブ巡りも。金になることなら何でも。メンバーの作った借金を返すために。そう、金、それはみんながほしかったもの。だからけちな盗人を懲りずに繰り返してはメンバーの誰かが監獄行き。でもフランキーはお目こぼし。判事までも。みんながフランキーを愛し、歌の練習を怠るなよ、と言ってくれる。あたたかい。
 でも、金そのもの、愛と関係のない金は、果てしなく冷たい。借金取りの存在感の冷たさ。ひとりぼっちのツアーで稼いだ金を数えるフランキーの哀しさ。フランキーを見いだしたのは事実だし兄貴肌でなにもかもがんばったトミー。音楽は本当のところ、あんまりわからなかったかもしれない。ニック・マッシと、実の兄のニックがいたからフランキーを買っていたのかもしれない。でも、彼には彼の才能があったのに、彼自身が自分を軽んじていた。グループのための金を何とかする、テキ屋的な才能だけを自慢していた。だからフランキーは悲しかった。
イタリアだ。イタリア以外の何物でもない。
フランキー、トミー、ニックは、みんなニュージャージーをふるさととして誇りにしている。ボブ・ゴーディオだけが「ニュージャージーはどうでもいい」と語る。本音かどうかは別としてね。でも確かに、彼は違った。ニューヨーク生まれだし(^_^;。そして違うから良かった。
長く長く、わたしはフランキー・バリとフォーシーズンズの音楽が好きで聴いていた。しかし、当人たちには何の興味もなかった。音楽が良ければいいじゃん。それだけだった。サイモンとガーファンクルやビートルズやカーペンターズは、特に望まなくても生身の彼らの話が伝わってくるけど、フォーシーズンズは、ダニー飯田とパラダイスキングの日本語版で「さあでておいでよー」が最初の記憶であり、長じて英語版もずっと聞き続けていたけれど、「彼ら」のストーリーには興味がなかった。二度もブロードウェイに行ったのに、ジャージャーボーイズというミュージカルの内容すら知らなかった。
フランキー・バリって、売れたからソロになったんでしょ、ぐらいに思ってた。
おはなしは、おはなし。
でもね、この映画には、ミュージカルには、本当、がつまってる。
たくさんの人が、フランキーを愛していた、という本当が。
愛される理由があった、という本当が。
オリジナルメンバーの中で、存在感が薄いと当人は気にしていたものの実際はとても印象的なバスのニック・マッシだけが、2014年11月15日時点で故人である。が、ニックのホームページ(今は更新が止まっている)にはジャージーボーイズというミュージカルへの非難や抗議もない。もちろん、生存しているメンバーからも。そしてこの映画はミュージカルを忠実に映像として再現した素晴らしいフィルムだ。
ならば、これが本当なんだ。
本当にあったことなんだ。彼らの心に。
フランキーと、フランキー役のロイド・ヤングは、フランキーが育った家の玄関口の階段で、ふたりだけで語る時間を持ったという。ほかにはだれもいなかった。ヤングは、フランキーと二人だけの秘密だという。
アメリカテレビ映画とアメリカの音楽を聴きながら育ったからこそ、リベラルに成長してからのアメリカ嫌いも強い。それでも、やっぱりアメリカはすごい。だって、こんなひとたちがいるんだよ。フランキーじゃないよ。フランキー役ができちゃうヤングをはじめとした、ミュージカル俳優たち。その層は果てしなく厚く、いま最下層でもいつかトップに立とうと、決して努力を怠らない俳優たち。
英国は、ロンドンに映像も舞台もラジオもテレビもあって、俳優は同じ日にそのどれにも出ることができる、アメリカは舞台なら東海岸、映像なら西海岸に住まねばならない、と、シャーロック主演のベネディクト・カンバーバッチが言った。どっちが上とか下とかそういう話ではなく、違いとして。
ブロードウェイを映像化した作品はたくさんある。
その中で、この作品は、確実にエポックメーキングな映画だ。
最初に監督として考えられていたのがイーストウッドではなかったなんてことはどうでもいい。
舞台をいかに忠実に映像化するか、は、当たり前のこと。その先が大事なんだ。映像化して伝えたいこと、映像だから伝わること。
舞台は一期一会。だから価値がある。だから観に行く。
でも、映画だってそれはできるんじゃないかな、って、イーストウッドは考えたことがあるんじゃないかな、って、彼の映画を観るたびに思う。思う、の上塗りなのでなにも根拠はないけれど、だから、この映画は奇跡なんだ。一期一会を映像に固定したから。
これは、奇跡の映画だ。
アメリカ、夢がかなう大都会、ニューヨークのすぐ近くにあるニュージャージー。
そこからスターになった少年たち。
ニュージャージー、ブロードウェイから最終電車で帰れるんだって、最初に一緒に観た友だちが言っていた。
二度とブロードウェイに行くことはないけれど、息子にはいつか行ってほしいな。英語が嫌いだとかわからないとか言ってないで。そしてもちろん、ウェストエンドにもね。
そうそう、フランキーとゴーディオがデモを送った所に訪ねていって、次々とドアをノックするシーン。あれ、雨に唄えばのオマージュ……だよね?
ありがとう、フランキー・バリとフォーシーズンズ。
ありがとう、クリント・イーストウッド。
ありかとう、一緒に観に行ってくれた友だち。
ありがとう、これから、語る友だち。

2014/11/09

87才、叔母の一年

昨年から調子が悪く、ショートステイを繰り返していた、身寄りがわたししかいない叔母。ショートで骨折したのをきっかけに、QOLがどんどん下がり、関係ないとは言いたくない、結果、閉尿も気づいてもらうことなく、重度になってから入院。そして胃瘻。この間の経緯については言いたいことがたくさんあるけど今は保留。自分の反省ももちろんあるし。ただ叔母のそばにいたい、という気持ちで座っていたら、「面会終了だから帰ってください」と無機質な男性看護師に追い出された真っ白な大雪の夜。頭の中が混乱して、結果、田無警察のお世話になる事件も起こした。叔母が知らないことだけが幸いです。何よりわたしを気づかってくれるので。
そんな叔母を受け入れてくださるという特養が登場しました。7月に入所。30年、それ以前の建物からしたら50年以上住んだ都営住宅を引き払い、戻る家がない状態で「死ぬまでここにいていいの?」という叔母の問いかけに「そうだよ」と答えた一週間後に誤嚥性肺炎で入院。ただし、前と違う病院。
西東京中央総合病院。
めちゃくちゃいい先生と看護師さんほかスタッフさんたち。感謝感謝の一ヶ月の後、退院。緑寿園の皆さんも総出で歓迎して常に声がけをしてくださいました。一日のメリハリがあることで、病院とは違う、希望のある生活ができました。が、10日で誤嚥性肺炎、再入院。さらに胃瘻が抜けて再手術となり、3ヶ月近く入院。3ヶ月を超すと普通、特養には戻れません。ちょい手前で、優しい、お世話になったみなさまに総出で送り出していただき、叔母も手を振りながら退院。特養のみなさんにも歓迎していただき、わたしもウクレレで叔母の好きなダークダックを弾きまくるなどしてくつろぎました。びっくり、ウクレレだめだめだったのが、叔母のために、と思ったら、いきなり銀色の道が弾けた。しかも楽譜を調べず知ってるコードを探り探りで。あとフォーシーズンズもかなり弾けるようになった。魔法だね。
一夜明けて、ほかの入居者さんの昼時を避けて13時過ぎに行くと、未明からよくない痰が出て、熱は38度9分。家族(わたくし)判断で西東京中央総合病院に受診、入院となりました。今回施設にいたのは一日でした。そして、もうそこには戻りません。無理です。皆さん本当に良い方です。志と伝統のある素晴らしい施設です。でも、夜間の吸引を伴い、通常の胃瘻の方より食事時間をかけなくてはならない叔母を託すのはあまりに……。早めに退園して、次に入る方を決めていただきたいと心から願います。本当に。都の条例など、言いたいことがたくさんあるけど、これも保留。
次は、わたしの家からもっと遠い、清瀬になりそうです。うちから単純計算で1時間20分かかります。それでも、緩和ケアがあり、予算的にも合致するとなれば、そこしかないでしょう。入れていただけたらありがたいです。もちろん、退院の運びとなればです。そこまで叔母が生きていればです。いま心臓が止まってもおかしくないし、年を越して生き延びてもおかしくない。もっとがんばるかもしれない。何ともいえません。これが介護の難しいところなのでしょうね。特に在宅の方は……。際限がない。いつまで、という区切りがない。常にアンテナを張っていなくてはならない。家族は、いつまでも生きていてほしい、だけど、在宅の方は、どこかで区切りがなくては共倒れもあるでしょう。わたしは病院や施設、そして叔母には補佐人さんと社会福祉協議会さんがついてくださっている、その心強さ。それでも、何をどうしたって後悔は残る。
わたしは、もちろんいけるだけ叔母の顔を見に行きます。行ってあげる、ではなく、叔母の顔が見たいのです。特に笑顔が。かわいいんですよ、87才の笑顔。つらいでしょうに。叔母に「苦しいときは無理に笑わなくていいんだよ」とは伝えました。小学生の間育ててもらい、正直、母ではなく、この叔母の味がわたしのおふくろの味です。
叔母がこの病院の前にいた病院の療養病棟は、ほとんど放置のまま弱ったら看取りへ、という病棟でした。看取りをさせてくれるのはよいのですが、あまりに手が足りない。医師は既往症すら聞いてない。てか、カルテ読まないんですね。いよいよ具合が悪い、となったら、小さめの3人部屋に移して、そこに入った方はまもなくなくなる。
名前を出します。田無病院です。
内科は先生も看護師さんもよくしてくださいました。飲み込めない患者の口中に残った錠剤を「ほら!ちゃんと飲んで!」と乱暴に押しこんだ看護師もいましたが。しかし。療養病棟は最低です。ワーカーさんはよくしてくれました。看護師さんもがんばってくれました。それでも、圧倒的に人数不足です。見回りに来るタイミングは間遠、患者の声を聞くこともなく、作業が終わったらさっさと離れる。リハビリもおざなり。
療養病棟に移る前、叔母の急性期入院中、わたしはストレス発作で倒れました。診てくれた医師は、ただ怒鳴るだけ。号泣して四肢が全く動かないわたしに「動かないの?動かないふりじゃないの?」もちろん、遠いところに行ってる患者を呼び戻すのに、乱暴な言葉を使うことはあります。CTの異常もありませんでした。でも動けないんです。しかし、この医師は一貫して乱暴で、やむなく一夜入院したわたしは、朝までおむつを替えてもらうことも身体の向きを変えることもしてもらえず、翌朝、車椅子でトイレに行き、帰りによれよれで歩いていたら、医師にばったり会って
「あ、歩けるようになったの。かえっていいよ」
そのあとで尿検査と血液検査がありました。看護師さんは恐縮していました。しかし、先生からはついに、その結果を聞きに来いという話もありませんでした。
そして、もちろん倒れたのは時間外なのでCTとかお金がかかったかもしれませんが、それ以外の結果を見ることもない検査で(病室代のぞいて)19000円ってなに?それ詐欺じゃないの?田無病院。レシートも明細もとってあるからね。反論があったらいつでも聞きます。
胃瘻だけれど、その時点で、叔母は「入れ歯を入れて話したい」とはっきり言いました。看護師さんには話さなかったようですが、それはもう、時間と心のかけ方、としか言いようもありません。がんばってくださったのはわかります。家族しか無理、という言葉をその時は信じました。でも、次に入院した病院、そこは戦争のように忙しい病院ですが、すべての医療従事者が丹念に声をかけてくださり、叔母も心を開きました。比較しないと見えないことがあるものです。
叔母は胃瘻にしたので口から食べることはありませんが、早くから総入れ歯だった彼女は、入れ歯をいれていることがアイデンティティの一つでした。
そんなとき、療養病棟に移って、普通なら担当医師との面談があるのですが、いっこうにない。こちらからお願いしたら、ワーカーさんがとても困った顔で、一週間後の土曜日なら、と。
おかしいよね。普通、病棟変わったら、近日中に新主治医とおはなしがありませんか?
お願いしてなんとかお話を聞くことができました。そのときの全録音を保管しております。
部分的なおこしです。
「統合失調症と認知症で」何かコミュニケーションができるのか、当人はしゃべれるつもりでもなにも意味がないのではないか、そして「なまじしゃべれることで問題が起きて精神病院にいかねばならなくなるかもしれない」と。
叔母はしゃべれました。わたしには。ものすごく。ものすごく、しっかりしゃべりました。はっきりと。わたしの身体を心配し、今度はいつ来てくれるの、と聞くのです。「楽しかったことは思い出したくない。つらいから」とも。どんなにその状況がつらかったのか、想像に難くありません。ただただ天井を見る日々。お日様の指さない病室で。ほかにもいっぱい、話すのです。妄想はほんの少しです。認知が進むと、一般的に統合失調症の症状は減るようです。たくさんたくさん話しました。普通に話しました。夫が来れば夫を認識してたくさん、息子が来れば「えええーおおきくなったわね!」と言いながらたくさん。
短期間とはいえ素晴らしい特養を経て、入院した西東京中央総合病院、西病棟3階で、叔母はとてもかわいがっていただき、心を開いていました。「おはよー」と看護師さんが声をかけると「おはようございます」、痰をとって「すっきりした?」と聞くと「はい」。ちゃんとタイミングに合った言葉が出せるんです。少し時間をいただきますが。
いま叔母は着実に弱っています。でも、年を越すかもしれない。いま心臓が止まるかもしれない。
もうこうなったら、わたしは行けるだけ行って顔は見たいけれど、自分のやりたいこともやります。映画を観る、仕事に行く、講演会を聞きに行く。だいぶんあとだけど、半年前からの約束である旅行に行く。
全部実現して、叔母にも会いに行って、少しでも話をしたいです。
病院でウクレレを弾くわけに行きませんが、銀色の道とあのすばは練習を続けます。

2014/11/04

古物発掘2011年01月07日息子19才の誕生日夢日記

(いきなり夢から始まります)

【夢日記】19歳の誕生日の夢日記 
2011年01月07日13:42 


時は年末。 
友人の松葉君が結婚したという報告を受けたので、僕とも松葉君とも数年の付き合いのある女の子(名前はわからないので『エロ』と名付けておく)と僕の二人で、「おめでとう」と挨拶しに行く事になった。 
僕は20代半ばで、既に結婚していた。 
エロも僕と同い年で、やっぱり結婚していた。 

松葉君の結婚相手はナエちゃんといい、この子も僕とエロの共通の知り合いだった。 
ナエちゃんは小柄で可愛くて、いつもゆっくりと喋り、近寄るとどことなく果物の匂いがして、本当に果物みたいな女の子だった。 
ナエちゃんを知る人は皆「あのナエちゃんが手込めにされたなんて信じられない」と嘆く程、皆ナエちゃんが大好きだった。 
ナエちゃんは僕とエロの2歳年下でかなり若かったけど、松葉君が僕とエロの1歳年下なので、松葉君はその若さで年下の妻を手に入れた事になる。 

昼下がり、日陰となったマンションの通路を表札を指差しながらゆっくり進んでいると、松葉の名字を見つけた。 
インターホンを鳴らすと、すぐに松葉君が出て来て本当に屈託無い笑顔で招き入れてくれた。 
ああ本当に嬉しくてたまらないんだな、と思う。 

「おめでとう。年の瀬に急にって言うんだからビックリしたよ。かなり急いだの?」 
「そうですね、頑張りました」 
玄関で手土産を渡すと、僕の後ろに居たエロがひょいと顔を前に出して 
「バコバコっすか?」 
とニヤニヤしながら聞いた。 
「バコバコっすね」 
と松葉君もニヤリと答え、いつの間にか玄関まで出て来てたナエちゃんに後頭部を小突かれた。 

廊下を進んでリビングに入ると明るい布地のコタツがあって、僕とエロと松葉君はそこに座り、ナエちゃんはキッチンにお茶を用意しに行った。 
「やるねえ、松葉」 
エロが楽しそうに松葉君の痴話を聞き出そうとしている。 
エロは三度の飯よりエロが大好きで、普段はキリリとした顔立ちなのにエロの話になると見事なニヤケ顔を浮かべる。顔立ちも良ければ体もエロなのでエロには困らないエロの為に生まれてきたようなエロで、こいつと出会った当時、まだまだ何もかもが燻っていた僕の目の前で欲しい物を片っ端から手に入れて行く姿に辛辣な印象を抱いた事もあったが、僕もエロの世界に足を踏み入れ対等に話しが出来るようになってからは何かとつるみ、互いの到底他では言えない卑猥体験を交換するおかしな仲になっていた。 

エロの猛攻をかわそうとするもついつい痴話を零してしまう松葉君を見ながら、手も暖めようかとコタツをめくると、何か白い布の様な物を見つけた。 
引きずり出してみると、セーラー服だった。全体的に乱れてるが主に胸のあたりにシワが集中してる、違和感のあるセーラー服。 

それを見た松葉君の表情が硬直した。 
今まで松葉君の方を向いていたエロもこちらを振り返る。 
エロは一瞬キリリとした顔に戻った。 
直後、先程までとは比べ物にならないくらいのニヤニヤを顔中から噴き出し、上半身ごとグイグイと松葉君に詰め寄り 
「こいつは何だ!こいつは一体何だ!若妻か、若妻に着せてるんだな!?」 
「畜生お前ら何やってんだ羨ましいぞ!おいナエちゃんこれ着てどんな風に啼くんだ言ってみろ!?」 
「見ないで!見ないで!わあ!お願いですから早く隠して!」 
僕達はキッチンのナエちゃんに気付かれないよう小声で大騒ぎした。 

夕方になって、僕とエロは松葉君の愛の巣からおいとました。 
来た時と比べるとかなり日も落ちていて薄暗い。 
近くの駅に向かって夕方の藍色の町並みを歩いていると、エロがぽつりと言い出した。 
「なあ、特殊な趣向の服屋を見て行かない?」 
正直同じ事を考えていた僕はギョットして立ち止まったが、すぐに二つ返事を返し、それから二人で何故か早足で駅に向かい、そういう街のそういう服屋に直行した。 

そういう服が淡い官能的カラーの照明に照らされた姿には何故だか艶かしさがあって、制服なんて僕の知ってる制服と見た目は変わらない様に見えるのに、漂う雰囲気はもう完全に異次元のものだった。 
エロは露出し過ぎてそうで露出し過ぎてないちょっと露出した忍者装束を、僕は赤いチャイナドレスを買って店を出た。 

おもちゃを買ってもらった子供みたいに大事そうに紙袋を抱え、でも顔には少し背徳と悦の混じった表情を浮かべる大人が二人、そういう街の駅で立ち並ぶ。 
「じゃあ、頑張れよ」 
エロが渾身のニヤニヤを絞り出す。 
「お前もな」 
僕もニヤけ返し、二人は別々のホームへと分かれた。 

自宅の最寄り駅を出てからは早足が止まらなくて、むしろその早足はどんどん勢いを増していって、ドアの前にたどり着く頃にはもう息が切れ切れだった。 
鍵を開けて中に入る。何だか10代の頃に戻ったように胸がバクバクしている。 
リビングの扉を開けると嫁はまだ帰っていなかった。 
「あれ、出かけるなんて言ってたっけなあ」 
ほんの少し落胆したが、すぐに気分を落ち着ける暇が出来たんだと切り替え、それでもまだ気分の高揚を押さえきれずに嫁に電話をかけてみた。 
「あれえ?言ったよね?28日の新幹線で帰省するって。三ヶ日明けたら戻るから、ちゃんとご飯食べて待っててね」 

電話が切れる。 

鈍器で殴られたような衝撃。テーブルの上にゆっくり視線を向けると、紙袋の入り口からチャイナドレスの赤い生地がチラリと見えた。放心状態でわけがわからない。チャイナドレスは店の官能的な雰囲気で見た時と同じように艶かしくて、僕はこの服と一緒に何日お留守番することになるんだろう。計算も出来ない。そもそも物が考えられない。何故かオオカミが遠吠えしている絵が浮かぶ。何日遠吠え、この衝動を抑えながら僕は一体何日一人で遠吠え。オオカミは喉がつぶれてしまわないだろうか、多分つぶれるんじゃないかと思う。僕はあれだけ可愛いナエちゃんよりもっと可愛い嫁を見つけたつもりだ。このチャイナドレスがとても似合うと思う。スラリとした足から腰のくびれに走る切れ込みが、 

気がつくと日が昇っていて、窓から差し込んだ光が微細なホコリを空間に照らし出していた。 
キョロキョロと周りを見渡すと、やっぱり状況は何も変わってなくて、僕はずっとテーブルの横で立ち尽くしていたらしい。 
気分は落ち着かず、まだオオカミの声が聞こえる。 
ポケットの携帯電話が揺れた。出ると相手はエロだった。 

「いやあもう旦那大喜び!昨日は燃えた燃えた、でへへへ。下手するといつもより1.5倍増しくらいだったんじゃないかな、いやあ本当、衣装様々!そっちは」 

涙が溢れた。 

「俺の事は放っておいてくれええええええええええええ!」 

乱暴に携帯の電源を切って寝室に駆け込み、布団に体当たりするかのように寝転び、泣いた。俺は一体どうすれば良い。これから6日間、向こうで家族に引き止められたりしたら更に数日、俺は一体この衝動をどこに閉じ込めておけば良い。テーブルの上のチャイナドレスは今も艶かしくそこにあるんだろう。オオカミは鳴き止まない。俺は一体。 


気がつくと現実に戻っていて僕はやっぱり枕に顔を埋めて泣いていました。 
センター試験が来週に迫ってますね。今日は僕の誕生日です。 
松葉君もナエちゃんもエロも嫁も知りません、誰でしょうかこの人達は。 
何故ここまで非現実的な夢を見るのでしょう。今日は僕の19歳の誕生日です。 

ネタバレ・映画『ジャージーボーイズ』(1回目)

クリント・イーストウッド監督『ジャージーボーイズ』を観てきた。

フォーシーズンズが大好きで、もちろんリアルタイム(60年代前半〜10才以前)にはまるわけもなく、後追いではあるのだけど、ずーっと聞いている。カラオケというものが登場してからは、収録曲が極端に少ないけれど、何度も歌っている。

しかし、楽曲が好き、それだけであり、フランキー・バリとフォーシーズンズ、から、ソロのフランキー・バリになった経緯も知らないし、勝手に違うことを想像していた。ミュージカルのジャージーボーイズは、存在は知っていたが見る機会はなかった。興味すらなかった。だって元の音源聞いてりゃそれでいいんだもの。

これは、フォーシーズンズ、フランキー・バリの音楽を知ってるか、好きか、そのどちらかでないとかなり厳しい映画でしょう。大はまりのわたくしは、映画開始冒頭3秒で落ちた。「このインストゥルメントは!」

そのあとは、フランキーという天才ファルセットをとりまくひとびと、フォーシーズンズの成り立ち、出世、挫折、問題、分裂、再起、まあ、ひととおり考え得る展開。

だが何よりうれしいのは、

「この名曲はこんな風にして生まれたのか!」

というシーンがテンポ良く惜しげもなくつながってゆくこと。
いわば、主役は「名曲の数々」であり、だからその曲を知らないひとには「なんのこっちゃ」でありましょう。日本でヒットしなかったの、わかります。

ニュージャージーという土地柄、時代、夢、才能への敬意、美しすぎてどこまで本当かわからないけど、そもそもが「ドキュメンタリー仕立て」なんだからどうでもいい。大筋、生き残ってるひとたちが認めたんならそれでいいじゃん。

雨に唄えば、のオマージュじゃね?

とか、

どうでもいいことでうれしくなるおばさんは、すべての曲を一緒に口ずさみ、身体を揺らし、泣いていました。

ラストクレジット前の楽曲が、あれ、じゃなくて、これ、である意味、映画を観たらわかる。

ああ、なんとつまらないことしかいえないのだろうか。

ちなみに、裏情報を知る前にわたしがいちばん好きだった曲は、

December 1963

これねえ、late December 1963、ってとこがいいんだよね。日付まであったらひきます。

イギリスのテレビ映画シャーロックでは音楽の使い方も絶妙で、この曲も印象的なラストシーンで出てきます。そしてビージーズのステインアライブも、まさかのシーンで。

ビージーズのドキュメンタリー風映画とか舞台ってあるんでしょうか。
次はそれを観たいです。もはやバリー・ギブしか残ってない彼ら。

ボーカルグループつながりで言うと、今年の春、ハイ・ファイ・セットの旦那さん、山本さんが急逝されていたこともショックでした。大川さん、戻れないんだろうなあ。

とっちらかって、おわります。観ましょう。もうほとんど上映おわりますが、やがてDVDが出たらこれは買います。

あ、隣の60台とおぼしき先輩ご夫婦。「あら、クリストファー・プラマー」とおっしゃってましたが、もちろんウォーケンです。プラマーだったらそれはそれでうれしいけど。