2010/07/25

クサナギツヨシが選んだ『帰ってきたヨッパライ』

どうも原曲の経緯を知らない人が多いようなので、これは一応、触れておかねばなるまい。 


「全裸事件を自嘲!? 草なぎ剛のソロ曲「帰って来たヨッパライ」に話題集中」(サイゾー・ウーマンより)



「『帰って来たヨッパライ』ってことなんで、いろいろ意見があるみたいだけど」と、世間の声を認識していることを前置きしながら「この曲、僕が選んだんですよ」と、自身の意志であることをきっぱり宣言。

さらに、ザ・フォーク・クルセダーズのボーカルであり、「帰って来た~」の作曲担当でもある加藤和彦が『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)にゲストで登場したときのことを振り返って、

「スマスマに来ていただいて、一緒に歌ったりとか。僕も去年ちょっと皆さんに迷惑かけたこととかあったりして」
「加藤さん去年ね、亡くなられてしまったりとかして」
「なんかねえ、詞を見た時に、すごい深い詞で。これをすべてエンタテイメントとして、前向きに捉えることができるんじゃないかなと思ったんですよ」
「いろいろ曲は他にもあったんですけど。すべて含めてこの曲がいいなと思って、この曲にしてみました」 


1960年代半ば。京都。 

『帰ってきたヨッパライ』は、アマチュアグループ、ザ・フォーク・クルセダーズ(当時はザ・フォーク・クルセイダーズ)の活動とは別に、加藤和彦が、後のミカ夫人を通して知り合った生涯の盟友の一人、作詞家でイラストも描く松山猛と毎晩あれやこれやと1曲ずつ気楽に作っていたうちの一曲です。 

最初は5人いたメンバーも、最後は加藤、北山修、平沼義男の3人になり、大学に戻るため解散する記念に何か、ということで北山の父から20万円借りてアルバム『ハレンチ』を作ることになりました。所詮素人の300枚のアルバム。ほとんどはありもののの曲でそろえたものの、やはり曲数が足りない。そこで『帰ってきたヨッパライ』を加藤が北山と平沼に提示したところ「おもしろい」と盛り上がる。 

加藤が松山と作っていたのはシンプルに「オラは死んじまっただー、天国よいとこ一度はおいで酒はうまいしネエちゃんはきれいだ」の歌。当時交通事故が多く、ヨッパライ運転防止の歌?みたいなノリで作ったと松山は後に語っています。そこに、北山が「なぁおまえー。天国ちゅうとこはそんなに甘いとこやおまへんにゃ。もっとまじめにやれー」と、最後のお経~ア・ハード・ディズ・ナイト~の部分を付け足しました。加藤も平沼もアイディアを出したようです。 

それでこの曲の作詞者は松山一人ではなく「ザ・フォーク・パロディ・ギャング」となっています。 

加藤は北山の妹が英会話の勉強に使っていたオープンリールのテープレコーダーを早回しすることで「カワイイ声」を作ろうと発想します。このあたり加藤の天才を感じさせます。 

この曲がアルバム『ハレンチ』(iTunesストアでも買えます。が、あえてこの曲が入った1枚を買うのなら『紀元弐千年』をおすすめします)となり、松山の「サイケ」なデザインに世界の民謡や不思議な歌をちりばめた一枚に。しかし、売れません。加藤や北山が関西の知り合いのラジオ局にかけてください、と言って回り、やがて爆発的ヒットとなりました。高度経済成長の最中であり、70年安保の手前です。 

後に北山は精神科医として母子関係、共視論などの研究を深めてゆく中で、この曲の中に三角関係を見いだします。 

オラ-ネエちゃん-神様-オラ 

という三角形です。オラはずっとネエちゃんと仲良くしていたい、でも神様がじゃまをする。 

またエディプス・コンプレックスという有名な三角形があります。 

息子-母-父-息子 

息子は父を殺し、母と同衾します。しかし、壊れてゆく。 

いずれの三角形も「父」が男の子と女の間を切り裂こうとする。この曲を完成するにあたり、父性を、北山は無意識のうちに体現していたのです。そして、父性が消えてゆく時代へと突入してゆく中、平沼は家の事情で脱退、学生運動最盛期で大学の門は封鎖され「1年間通学しなくても単位がもらえる」というチャンスに、北山は加藤を誘い、加藤がはしだを誘い、三人で新生ザ・フォーク・クルセダーズとして1年間と区切りをつけて活動しました。そして1年後、約束通り解散し、解散後に数枚のシングルを出して、フォークルは存在しなくなりました。 

というわけで、実はこの録音版『帰ってきたヨッパライ』に、はしだのりひこは参加していません。が、ステージでは「オラ」を担当しました。 

その後の各自の活躍は皆さんご存じのことでしょう。 

加藤和彦はサディスティック・ミカ・バンドをはじめとして、ボーカリスト、演奏家、作曲家でありながら、プロデュースにもっとも気持ちを割いたようです。泉谷しげるの『春夏秋冬』も、吉田拓郎の『結婚しようよ』も、加藤のプロデュースとアレンジがなかったら、あれほどのヒット曲にはならなかったでしょう。後に安井かずみ夫人と彼女の死までヒット曲を量産。彼が自分の「ボーカリスト」としてのたぐいまれな資質を軽く見積もっていたことが残念でなりません。 

はしだのりひこはシューベルツ、クライマックスなどで北山の詞を得て「風」「花嫁」などの大ヒットをとばし、一時専業主夫を経て、現在ソロ活動中。 

北山修は医学の中で精神科に進もうか、と迷いつつ、やはり一通りの処置もできない医者ではいけない、と内科の研修を受けた後、イギリスで2年間の留学の間に出会った教授たちの影響もあり、完全に精神科への道を定め、たくさんの論文や著作をなし、九州大学で20年間教鞭を執った後、名誉教授として退官し、これからは一臨床医及び後進の指導にあたりつつ、年に数回はトークやライブを行ってゆくようです。



この詞を「深い」と言ったクサナギツヨシはすごい。論理的ではなく、直感的に感じたのでしょう。つかこうへいの舞台『蒲田行進曲』で、銀ちゃん、小夏、ヤスの壮絶な三角関係を演じきりました。それはあまりにこじつけかもしれませんが…。 

蒲田のとき、クサナギツヨシは「台詞を言っていると自然にそういう気持ちになってゆく」というようなことを言っていました。この歌を口ずさんで、何かを感じたに違いありません。 

加藤の自死は、いくら惜しんでもあまりあります。つかこうへい先生が、生きたくても生きられなかった。同世代、団塊の世代の天才二人が、去年、今年と去ってしまったことが悲しくてなりません。 

ちなみに北山は加藤との唯一のデュエットシングル『あの素晴しい愛をもう一度』をあとから考察し、 

“同じ方向をみて心一つと誓っていた二人が別れる”ことを、母子関係にたとえています。 

3歳、4歳、5歳のかわいい盛り。赤とんぼをおいかけたり、花を摘んだり、一緒に楽しく同じ未来を見て「ずっと一緒」と生きてきた母子。しかし、やがて子はそれを忘れてしまい、独り立ちしてゆきます。母は寂しく「心と心が今はもう通わない」と嘆きますが、旅立つ子供を頼もしくも思う、揺れる心。 

音楽はどんな風に解釈してもよいけれど、わたしはこの解釈がとても好きです。 

話がそれましたが、クサナギツヨシの『帰ってきたヨッパライ』については、きたやまおさむさんのご意見をぜひとも伺ってみたいものです。


【後日談】
TBSラジオ土曜ワイド(永六輔)にきたやまおさむが出演、それまでなにもジャニーズ事務所からコンタクトがなかったのだが、事務手続き上の不備だったようで、法的に使用して良い旨伝えたところ、クサナギくん自身からきたやまさん宛にお詫びとお礼の手紙が届いたそうです。縦書きだったと驚いていました。「クサナギくんバージョンのアレンジいいよね」とのことでした。