2014/11/09

87才、叔母の一年

昨年から調子が悪く、ショートステイを繰り返していた、身寄りがわたししかいない叔母。ショートで骨折したのをきっかけに、QOLがどんどん下がり、関係ないとは言いたくない、結果、閉尿も気づいてもらうことなく、重度になってから入院。そして胃瘻。この間の経緯については言いたいことがたくさんあるけど今は保留。自分の反省ももちろんあるし。ただ叔母のそばにいたい、という気持ちで座っていたら、「面会終了だから帰ってください」と無機質な男性看護師に追い出された真っ白な大雪の夜。頭の中が混乱して、結果、田無警察のお世話になる事件も起こした。叔母が知らないことだけが幸いです。何よりわたしを気づかってくれるので。
そんな叔母を受け入れてくださるという特養が登場しました。7月に入所。30年、それ以前の建物からしたら50年以上住んだ都営住宅を引き払い、戻る家がない状態で「死ぬまでここにいていいの?」という叔母の問いかけに「そうだよ」と答えた一週間後に誤嚥性肺炎で入院。ただし、前と違う病院。
西東京中央総合病院。
めちゃくちゃいい先生と看護師さんほかスタッフさんたち。感謝感謝の一ヶ月の後、退院。緑寿園の皆さんも総出で歓迎して常に声がけをしてくださいました。一日のメリハリがあることで、病院とは違う、希望のある生活ができました。が、10日で誤嚥性肺炎、再入院。さらに胃瘻が抜けて再手術となり、3ヶ月近く入院。3ヶ月を超すと普通、特養には戻れません。ちょい手前で、優しい、お世話になったみなさまに総出で送り出していただき、叔母も手を振りながら退院。特養のみなさんにも歓迎していただき、わたしもウクレレで叔母の好きなダークダックを弾きまくるなどしてくつろぎました。びっくり、ウクレレだめだめだったのが、叔母のために、と思ったら、いきなり銀色の道が弾けた。しかも楽譜を調べず知ってるコードを探り探りで。あとフォーシーズンズもかなり弾けるようになった。魔法だね。
一夜明けて、ほかの入居者さんの昼時を避けて13時過ぎに行くと、未明からよくない痰が出て、熱は38度9分。家族(わたくし)判断で西東京中央総合病院に受診、入院となりました。今回施設にいたのは一日でした。そして、もうそこには戻りません。無理です。皆さん本当に良い方です。志と伝統のある素晴らしい施設です。でも、夜間の吸引を伴い、通常の胃瘻の方より食事時間をかけなくてはならない叔母を託すのはあまりに……。早めに退園して、次に入る方を決めていただきたいと心から願います。本当に。都の条例など、言いたいことがたくさんあるけど、これも保留。
次は、わたしの家からもっと遠い、清瀬になりそうです。うちから単純計算で1時間20分かかります。それでも、緩和ケアがあり、予算的にも合致するとなれば、そこしかないでしょう。入れていただけたらありがたいです。もちろん、退院の運びとなればです。そこまで叔母が生きていればです。いま心臓が止まってもおかしくないし、年を越して生き延びてもおかしくない。もっとがんばるかもしれない。何ともいえません。これが介護の難しいところなのでしょうね。特に在宅の方は……。際限がない。いつまで、という区切りがない。常にアンテナを張っていなくてはならない。家族は、いつまでも生きていてほしい、だけど、在宅の方は、どこかで区切りがなくては共倒れもあるでしょう。わたしは病院や施設、そして叔母には補佐人さんと社会福祉協議会さんがついてくださっている、その心強さ。それでも、何をどうしたって後悔は残る。
わたしは、もちろんいけるだけ叔母の顔を見に行きます。行ってあげる、ではなく、叔母の顔が見たいのです。特に笑顔が。かわいいんですよ、87才の笑顔。つらいでしょうに。叔母に「苦しいときは無理に笑わなくていいんだよ」とは伝えました。小学生の間育ててもらい、正直、母ではなく、この叔母の味がわたしのおふくろの味です。
叔母がこの病院の前にいた病院の療養病棟は、ほとんど放置のまま弱ったら看取りへ、という病棟でした。看取りをさせてくれるのはよいのですが、あまりに手が足りない。医師は既往症すら聞いてない。てか、カルテ読まないんですね。いよいよ具合が悪い、となったら、小さめの3人部屋に移して、そこに入った方はまもなくなくなる。
名前を出します。田無病院です。
内科は先生も看護師さんもよくしてくださいました。飲み込めない患者の口中に残った錠剤を「ほら!ちゃんと飲んで!」と乱暴に押しこんだ看護師もいましたが。しかし。療養病棟は最低です。ワーカーさんはよくしてくれました。看護師さんもがんばってくれました。それでも、圧倒的に人数不足です。見回りに来るタイミングは間遠、患者の声を聞くこともなく、作業が終わったらさっさと離れる。リハビリもおざなり。
療養病棟に移る前、叔母の急性期入院中、わたしはストレス発作で倒れました。診てくれた医師は、ただ怒鳴るだけ。号泣して四肢が全く動かないわたしに「動かないの?動かないふりじゃないの?」もちろん、遠いところに行ってる患者を呼び戻すのに、乱暴な言葉を使うことはあります。CTの異常もありませんでした。でも動けないんです。しかし、この医師は一貫して乱暴で、やむなく一夜入院したわたしは、朝までおむつを替えてもらうことも身体の向きを変えることもしてもらえず、翌朝、車椅子でトイレに行き、帰りによれよれで歩いていたら、医師にばったり会って
「あ、歩けるようになったの。かえっていいよ」
そのあとで尿検査と血液検査がありました。看護師さんは恐縮していました。しかし、先生からはついに、その結果を聞きに来いという話もありませんでした。
そして、もちろん倒れたのは時間外なのでCTとかお金がかかったかもしれませんが、それ以外の結果を見ることもない検査で(病室代のぞいて)19000円ってなに?それ詐欺じゃないの?田無病院。レシートも明細もとってあるからね。反論があったらいつでも聞きます。
胃瘻だけれど、その時点で、叔母は「入れ歯を入れて話したい」とはっきり言いました。看護師さんには話さなかったようですが、それはもう、時間と心のかけ方、としか言いようもありません。がんばってくださったのはわかります。家族しか無理、という言葉をその時は信じました。でも、次に入院した病院、そこは戦争のように忙しい病院ですが、すべての医療従事者が丹念に声をかけてくださり、叔母も心を開きました。比較しないと見えないことがあるものです。
叔母は胃瘻にしたので口から食べることはありませんが、早くから総入れ歯だった彼女は、入れ歯をいれていることがアイデンティティの一つでした。
そんなとき、療養病棟に移って、普通なら担当医師との面談があるのですが、いっこうにない。こちらからお願いしたら、ワーカーさんがとても困った顔で、一週間後の土曜日なら、と。
おかしいよね。普通、病棟変わったら、近日中に新主治医とおはなしがありませんか?
お願いしてなんとかお話を聞くことができました。そのときの全録音を保管しております。
部分的なおこしです。
「統合失調症と認知症で」何かコミュニケーションができるのか、当人はしゃべれるつもりでもなにも意味がないのではないか、そして「なまじしゃべれることで問題が起きて精神病院にいかねばならなくなるかもしれない」と。
叔母はしゃべれました。わたしには。ものすごく。ものすごく、しっかりしゃべりました。はっきりと。わたしの身体を心配し、今度はいつ来てくれるの、と聞くのです。「楽しかったことは思い出したくない。つらいから」とも。どんなにその状況がつらかったのか、想像に難くありません。ただただ天井を見る日々。お日様の指さない病室で。ほかにもいっぱい、話すのです。妄想はほんの少しです。認知が進むと、一般的に統合失調症の症状は減るようです。たくさんたくさん話しました。普通に話しました。夫が来れば夫を認識してたくさん、息子が来れば「えええーおおきくなったわね!」と言いながらたくさん。
短期間とはいえ素晴らしい特養を経て、入院した西東京中央総合病院、西病棟3階で、叔母はとてもかわいがっていただき、心を開いていました。「おはよー」と看護師さんが声をかけると「おはようございます」、痰をとって「すっきりした?」と聞くと「はい」。ちゃんとタイミングに合った言葉が出せるんです。少し時間をいただきますが。
いま叔母は着実に弱っています。でも、年を越すかもしれない。いま心臓が止まるかもしれない。
もうこうなったら、わたしは行けるだけ行って顔は見たいけれど、自分のやりたいこともやります。映画を観る、仕事に行く、講演会を聞きに行く。だいぶんあとだけど、半年前からの約束である旅行に行く。
全部実現して、叔母にも会いに行って、少しでも話をしたいです。
病院でウクレレを弾くわけに行きませんが、銀色の道とあのすばは練習を続けます。