2014/11/15

ジャージーボーイズ 完全ネタバレ感想妄想

※未見の方は絶対に読まないでください。


二度観てやっと、もやもやが晴れた。
好きだからこそ舞い上がって勘違いしていたところも修正できた。
この映画は、フランキー・バリを中心にした「boys」の物語だが、正確にいうとフランキー・バリという天使を、第三者が温かく見守り続ける物語だ。
メンバーやマフィアのボスほか地元の人々、地元出身の音楽プロデューサー……
そして、神。
神という言い方をしてみるが、ほかに浮かばないからだ。
いずれ日本語版のDVDが発売されたら購入して確かめたいのだが、
・すべてのシーンにフランキーが出ている
・もしくはフランキーへの言及があるか関係している
フランキー、フランキー、フランキー、あんたらどんだけフランキーが好きなんだ。
物語が後半にさしかかり、はじめて、フランキー不在のシーンが登場する。
「フランキーはシナトラを超えるぜ」と仲間が言っていた、そのあこがれの“シナトラスイート”でのどんちゃんパーティ。
その前にもパーティシーンがある。シェリーの大ヒットでスターへの階段を昇り始めた年のクリスマスパーティだ。フランキー・バリとフォーシーズンズの音楽面の屋台骨と行ってもいいボブ・ゴーディオにメンバーたちが送ったクリスマスプレゼントは、卒業。後日、この話が “December 1963” となるんだなあ、とファンならわかる。ウィキペディアによると、この曲はもともと、禁酒法が廃止された1933年の夜を「なんて素晴らしい夜!」と歌ううただったらしい。しかし、フランキーと、ゴーディオのパートナーであるジュディ・パーカーの強い意見によって、少年卒業の歌になったとある。なるほど、禁酒法がなくなってうれしいな、だったらこんなにヒットしなかっただろうな。しかも最初のタイトルは” December 5th, 1933”。内容が変わっただけではなく、「1963年の年も押し詰まった頃」というぼやかし方が実にいい。ねえ、そういうときを、日付で覚えていて、まあ、当人は覚えていてもいいんだけど、歌われてもねえ。これはぼやけてるからいいんですよね。ちなみに英国ドラマ「シャーロック」で、この曲はとても印象的なシーンで使われている。思わず泣きました。前後がわかってる人にしか意味がないんだけども。
ともあれ、このパーティはフランキーも大いに楽しみ、ゴーディオの卒業をともに祝った。
しかし、二度目のパーティにフランキーはいない。いないことは、あとでわかる。「こいよ」と自宅で電話を受けるフランキー。行かないフランキー。家族と過ごすクリスマス。形だけの家族。
フランキーの一人称は、舞台から引き継いだモノローグをのぞいて、ほぼ出てこない。語るフランキーはいる。しかしそれは一人称ではなく、仲間、もしくは神の視点だ。
「誰がフランキーをどんなに愛したか、どんなに買っていたか」
の物語。
『風立ちぬ』に、なんとなくつながる。あの映画も、堀越二郎という天才を愛した人たちの映画だ。しかし、二郎の一人称の映画だ。すべての映像は二郎の観た映像だ。世界だ。それがすごいんだけど。ジャージーボーイズは、フランキーを見る人々の映像だ。これもすごいんだ。
フランキーは愚直に素直に天才を貫く。
ニューヨーク通勤圏のニュージャージー州でありながら、裕福とはお世辞にもいえない地域に住む、イタリア移民の世界。それが天才をあたたかく育んだ大きなもうひとりの母。この映画は、アメリカで作られたイタリア映画のような、不思議な感覚をはらむ。あ、クリント・イーストウッドといえば、カウボーイですなあ。この映画でもローハイドでカメオ出演してます。マカロニウェスタンなんて言葉がはやったのはいつだったかなあ。
そしてフランキーは、身近な人を幸せにできない。この悲しみ。愛しているのに。愛してるのに。家族のために歌って歌って歌い続けているのに。
ツアーで留守ばかりの父に娘が問う。
Dad, do you love me?
これはごくふつうの会話だ。アメリカだから。
ところがそのあと、娘はこう問う。
Do you like me?
フランキーは、娘をどのくらい好きかどんなふうに表現すればいいのか胸いっぱいになりながら必死に言葉を探し、娘を強く強く抱きしめる。
二度目に観たあと、一緒に観た友だちもここにすごくぐっときていたのがわかって盛り上がった。
Loveより、Like、なんだね!!
フランキーはツアー先の取材に来た女性記者と恋に落ちる。家で飲んだくれてあれている妻に愛想を尽かし、新たな結婚を考えている。しかし、彼女も去る。
妻だって、がんばって落とした(落とされた)女だし、あんなに愛していたし、仲良かったし、イタリアだし、バリィではなく、バリ、にしなさい、といってくれた最高に色っぽい姉さん女房。イタリアだから、って簡単に言っちゃうけど、イタリアの母って強いじゃないですか。イタリア映画の母は。昔のね。実際、この映画始まってすぐに登場するフランキーの両親、まあお母さんの強いこと。お父さんの台詞は「ママの言うとおりだ」「ママの言うことをきけ」。イタリアの母は強い、何があっても子どもを守る。フランキーは妻のメアリーにそれを求めたのでしょう。そして、それは、あまりにも重かった。ダメ夫でも一緒にいればいいけど、フランキーはツアーで一年のほとんどをよそで過ごす。そんな夫、そんな父親、イタリアじゃだめだろ。道、だよね。旅芸人だよ。家庭なんか持っちゃダメなんだ。
このヒット曲の裏にはこんなエピソードが、というのはフィクションでも事実でもどっちでもいい。全部嘘ではないし、時系列の変更や後付けや完全なドラマタイズもある。
いちばんつらい事実は、映画の中でドラッグで娘を失うフランキー、実際はその前に交通事故でもうひとり娘を亡くしている。それでも歌う。歌い続ける。
「ボブ・ゴーディオは家で家族と過ごす。僕は旅に出て歌い続けた。年に220日」
日数はうろ覚えだけど。
 借金でトミーが消え、我慢に我慢を重ねていたニックが爆発して消え、残ったボブとふたり、天才ふたりで商売にはなるけれども、ボブは作曲家として家にいる。フランキーはひとりぼっちでツアー、ツアー、ツアー、ツアー。ツアーと言えば聞こえのいいクラブ巡りも。金になることなら何でも。メンバーの作った借金を返すために。そう、金、それはみんながほしかったもの。だからけちな盗人を懲りずに繰り返してはメンバーの誰かが監獄行き。でもフランキーはお目こぼし。判事までも。みんながフランキーを愛し、歌の練習を怠るなよ、と言ってくれる。あたたかい。
 でも、金そのもの、愛と関係のない金は、果てしなく冷たい。借金取りの存在感の冷たさ。ひとりぼっちのツアーで稼いだ金を数えるフランキーの哀しさ。フランキーを見いだしたのは事実だし兄貴肌でなにもかもがんばったトミー。音楽は本当のところ、あんまりわからなかったかもしれない。ニック・マッシと、実の兄のニックがいたからフランキーを買っていたのかもしれない。でも、彼には彼の才能があったのに、彼自身が自分を軽んじていた。グループのための金を何とかする、テキ屋的な才能だけを自慢していた。だからフランキーは悲しかった。
イタリアだ。イタリア以外の何物でもない。
フランキー、トミー、ニックは、みんなニュージャージーをふるさととして誇りにしている。ボブ・ゴーディオだけが「ニュージャージーはどうでもいい」と語る。本音かどうかは別としてね。でも確かに、彼は違った。ニューヨーク生まれだし(^_^;。そして違うから良かった。
長く長く、わたしはフランキー・バリとフォーシーズンズの音楽が好きで聴いていた。しかし、当人たちには何の興味もなかった。音楽が良ければいいじゃん。それだけだった。サイモンとガーファンクルやビートルズやカーペンターズは、特に望まなくても生身の彼らの話が伝わってくるけど、フォーシーズンズは、ダニー飯田とパラダイスキングの日本語版で「さあでておいでよー」が最初の記憶であり、長じて英語版もずっと聞き続けていたけれど、「彼ら」のストーリーには興味がなかった。二度もブロードウェイに行ったのに、ジャージャーボーイズというミュージカルの内容すら知らなかった。
フランキー・バリって、売れたからソロになったんでしょ、ぐらいに思ってた。
おはなしは、おはなし。
でもね、この映画には、ミュージカルには、本当、がつまってる。
たくさんの人が、フランキーを愛していた、という本当が。
愛される理由があった、という本当が。
オリジナルメンバーの中で、存在感が薄いと当人は気にしていたものの実際はとても印象的なバスのニック・マッシだけが、2014年11月15日時点で故人である。が、ニックのホームページ(今は更新が止まっている)にはジャージーボーイズというミュージカルへの非難や抗議もない。もちろん、生存しているメンバーからも。そしてこの映画はミュージカルを忠実に映像として再現した素晴らしいフィルムだ。
ならば、これが本当なんだ。
本当にあったことなんだ。彼らの心に。
フランキーと、フランキー役のロイド・ヤングは、フランキーが育った家の玄関口の階段で、ふたりだけで語る時間を持ったという。ほかにはだれもいなかった。ヤングは、フランキーと二人だけの秘密だという。
アメリカテレビ映画とアメリカの音楽を聴きながら育ったからこそ、リベラルに成長してからのアメリカ嫌いも強い。それでも、やっぱりアメリカはすごい。だって、こんなひとたちがいるんだよ。フランキーじゃないよ。フランキー役ができちゃうヤングをはじめとした、ミュージカル俳優たち。その層は果てしなく厚く、いま最下層でもいつかトップに立とうと、決して努力を怠らない俳優たち。
英国は、ロンドンに映像も舞台もラジオもテレビもあって、俳優は同じ日にそのどれにも出ることができる、アメリカは舞台なら東海岸、映像なら西海岸に住まねばならない、と、シャーロック主演のベネディクト・カンバーバッチが言った。どっちが上とか下とかそういう話ではなく、違いとして。
ブロードウェイを映像化した作品はたくさんある。
その中で、この作品は、確実にエポックメーキングな映画だ。
最初に監督として考えられていたのがイーストウッドではなかったなんてことはどうでもいい。
舞台をいかに忠実に映像化するか、は、当たり前のこと。その先が大事なんだ。映像化して伝えたいこと、映像だから伝わること。
舞台は一期一会。だから価値がある。だから観に行く。
でも、映画だってそれはできるんじゃないかな、って、イーストウッドは考えたことがあるんじゃないかな、って、彼の映画を観るたびに思う。思う、の上塗りなのでなにも根拠はないけれど、だから、この映画は奇跡なんだ。一期一会を映像に固定したから。
これは、奇跡の映画だ。
アメリカ、夢がかなう大都会、ニューヨークのすぐ近くにあるニュージャージー。
そこからスターになった少年たち。
ニュージャージー、ブロードウェイから最終電車で帰れるんだって、最初に一緒に観た友だちが言っていた。
二度とブロードウェイに行くことはないけれど、息子にはいつか行ってほしいな。英語が嫌いだとかわからないとか言ってないで。そしてもちろん、ウェストエンドにもね。
そうそう、フランキーとゴーディオがデモを送った所に訪ねていって、次々とドアをノックするシーン。あれ、雨に唄えばのオマージュ……だよね?
ありがとう、フランキー・バリとフォーシーズンズ。
ありがとう、クリント・イーストウッド。
ありかとう、一緒に観に行ってくれた友だち。
ありがとう、これから、語る友だち。